死んでたまるか 3年が経過して 4  PDF

垣田 さち子(西陣)

明治の医者

 思い出して一番落ち着くのは、それが一番幸せな時だったのだろう。何度も思い出し、その度に幸せな気持ちに浸れるのは意外な時期だった。「三つ子の魂百まで」と言うけれど、大事にされた小さい頃、小学校に入る前までか。
 私の父は府立医大卒業を1年繰り上げ戦争に行った。初めは中国へ、そして南進作戦とかでトラック群島まで転戦し、最終はニュージーランドの捕虜収容所に収監されて終戦となり、日本へ送還された。
 当時父の実家には、祖父母とキイ子伯母とその息子ヒデヲちゃんの四人が住んでいた。伯母は、結婚相手のメンタルが問題となり、父が出征前に連れ戻した。父からは最初に赴いた中国よりよく便りが届いていたが、南方に行ってからは途絶えた。一家の状態はどうだったのか。キイ子伯母が小学校の教師になって生活を支えたのだろう。6年ぶりに収容所から父の手紙が届き、祖父は歓喜の余り手紙を掲げて小学校まで走ってきた。門から運動場を横切って伯母の教室までまっすぐ走ってきたそうだ。
 団塊の世代がみなそうであるように、私は一家待望の子どもだった。いとこ会が“子(ねずみ)”が多くチューの会などと呼んで、一回り二回り違う干支が揃っていた。12歳以上も間をおいての孫誕生で、祖父母以下親類中が大喜びで迎えてくれた。
 「生きてはいない」とみなが覚悟した父が奇跡の生還を果たし、大学に戻り、結婚し、子どもも生まれ大忙しの日々だったろう。おかげで私は祖父母の元に預けられることが多かった。とはいっても本当はキイ子伯母とヒデヲちゃんにお世話してもらったのだけれど。
 伊賀上野の祖父母宅が大好きだった。祖父は明治の田舎の秀才で複数回の“飛び級”で医師の家の書生になり、東京の陸軍軍医学校と京都府立医大で医師になった。三重県医師会の記念写真には8番目とあった。
 しかし戦後の日々、眼科開業はどうなっていたのか。隠居生活だったと思うのだが。我がもの顔でウロウロしていた女の子も、今となっては聞きたいことだらけなのにもう誰もいない。大正時代に祖父が設計して建てた大きな門構えのあの家もない。一度だけ患者さんが来られてお薬をもらって行かれたのを障子の隙間から覗いていたことがあるが、全く時代劇を見ているようだった。患者さんはひたすらひれ伏し、祖父はとてもエライ人に見えた。いつもは私の嫌いな、川端康成の言う「高等遊民」そのものだったのに。

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