診察室よもやま2話 第12回 飯田 泰啓(相楽)  PDF

大正生まれ

 大正生まれのKさんは、いつも息子さんに付き添われて受診される。
 ことさら暑かった年の夏、体調を崩され、ほとんど食事もできなくなってしまわれた。このまま寝たきりかと思った時期もあった。しかし訪問看護にお願いして毎日のように点滴をしてもらったおかげで危機を乗り切られた。
 「いやあ、見違えるほどお元気になられましたね」
 「ええ、助かりました」
 「本当によく食べるようになってくれて助かりました」
 息子さんが、近ごろの様子を話して下さる。
 「あの時は駄目かと思いました。でも、これなら、まだまだ亡くなった親父のところに行けませんよ」
 「もう十分に生きました。あの時に死んでもよかったのですよ」
 「そうおっしゃらずに」
 「死にたい死にたいと言いながら、それでも先生のところに連れて行ってくれと言うのです」
 息子さんも、ホッとしながらも毎日の介護に苦労している様子である。
 「それにしても、みんな長生きですね。医学が進歩したからですかね」
 「それはそうなのですが、一番大きな原因は、住まいや食事が良くなったからなのですよ」
 「そうですか」
 「昔は、野菜を作るにも下肥だったでしょう。今、有機農法だと言って、下肥を用いたらどうなるでしょう」
 「まさか、そんなことできないですよ」
 「昔は、そこら辺りに肥溜めがあって、野壺にはまらないようにと注意されたでしょう」
 「そうですね。町家にし尿を貰いに行って肥タゴを牛にひかせたリアカーに載せて運びました。若い頃には私も、その手伝いをしました。し尿のお礼に、年末には、お餅と黒豆、わらを持って挨拶に行ったものです」
 Kさんは農家の生まれで、子供の頃のことを話しだす。し尿は肥溜めなどで十分に発酵させて堆肥にして用いる。人糞を肥料にしたのは日本人の発明した農法で、この発明から農産物の生産が飛躍的に上がったと言われている。
 「今は暑い夏でもクーラーがあるでしょう」
 「そうですね。昔はうちわだけでした」
 「冬だって同じです。今ではどこの家でもサッシがあってエアコンの暖房があるでしょう。昔の家は障子と雨戸だけで、家の中でも綿入れを着ていたでしょう」
 「そうそう、炭火をおこして火鉢にかじりついていました。雨戸があっても、障子の隙間から外の寒い風が入ってきました。戸外の便所に行くのが寒くって。お風呂も五右衛門風呂で外から炊いてもらわなければなりませんでした」
 「そうですね」
 「それよりも、昔と一番違うのは、嫁が強くなったことです。よく遊びに来てくれる近所の同年者と話をしているのです」
 Kさんがいつも思っている愚痴が出てくる。
 「嫁との関係は昔と逆になっています。私は姑さんに仕えてきたのに、今は嫁に小さくなっています」
 そういえば、Kさんは嫁とうまくいっていない。Kさんが体調を崩した時も、嫁は愚痴をいうものの、Kさんの寝ているところに顔も出さなかったようだ。
 「最近は世の中の変化が激しいですね」
 「そう、大正、昭和、平成 そして令和と4代生きたことになります。もういつ死んでもよいのです」
 「そんなことより、転んで寝込まないようにして下さい。寝たきりになって、天井ばかり見て過ごすのもつらいですから」
 「息子も転ばないようにと、そればかり言うのです」
 難聴のKさんに、大声で、こんな話をするものだから、診療所のスタッフは笑っている。
 個人的なことには深入りしないというのは、これまでから取られてきた傾聴の方法である。しかし、最近、単なる傾聴にとどまらず介護に民俗学的な聞きとりの手法を応用することで、高齢者が生き生きすることが示されてきている。
 昔の話をすると生き生きされるKさんである。こんなKさんを見ていると、時間の余裕がある時には高齢者と昔話をすることも、かかりつけ医の役目と思ってしまう。

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