なるほどそうだ、と膝をたたいた言葉がある。
「家族依存」。知的障害者とその家族を研究する田中智子・佛教大教授が、現状を世に問うために用いた表現だ。
障害を持つ子の日常の世話、トラブル対処、通学・通所・就労のだんどり、制度の利用、家計の維持、親亡き後への備え……。成人後も負担は続き、きょうだいにも及ぶ。
障害福祉サービスや障害年金・手当が一定あっても、たくさんのことを家族が担い、時間と労力、お金を費やしている。自分の人生より、子のために生きざるをえない。
家族だから面倒を見るのは当たり前? はたしてそうだろうか。この子のことを本気で考えるのは家族だけだから? それでよいだろうか。
社会の側が、そんなふうに思う家族に依存し、負担を強いているのではないか。その結果が80・50問題、90・60問題としても表れている。
経済的な苦しさや直接の介護負担だけでなく、家族だから当然という発想・感覚そのものを、根本的に変えていくべきではなかろうか。
高齢者分野の介護保険は、家族の負担を軽減して「介護の社会化」を図るとうたって導入された。しかし家族に頼るのをやめようという思想は不徹底で、やがて制度維持が自己目的化していった。
1970年代に米国で始まった障害者の自立生活運動は、日々どう暮らすかを他者ではなく自分で決めよう、自分の意思をかなえるために人や社会の助けを得ていい、という発想の転換を打ち出した。
行政は「自立支援」という用語を好んで使う。社会的に弱い人を単に救済や援助の対象と見るべきではないという意味では正しい。
だが肝心なのは、家族や入所施設の意向に縛られずに暮らせるようにすること。そのために本人が頼れる関係先をなるべく多く提供することが社会の側の務めではないか。
実際には行政も医療、福祉の関係者も、家族がいれば家族に頼る。押し付けずに判断をゆだねるということではあるが、制度利用の判断も、医療への同意も、住宅・施設の選択も、それらに伴う手続きや費用負担の保証も、しっかりした家族ほど、どんどん頼られて、くたびれる。
民法上の扶養義務に関する定まった解釈では、配偶者同士と、未成熟の子に対する親は、強い「生活保持義務」を負う。直系血族と兄弟姉妹は、弱い「生活扶助義務」(余裕があれば援助)にとどまる。それ以外の3親等内の血族は家裁が特別に決めたときだけ。
それでも、これほど広く扶養義務を定めている国は珍しい。欧米の多くでは、子が成人すれば親から独立する。
そもそも家族だから仲が良いとは限らない。虐待やDVも少なくない。
家族が自然な情から互いに大事にするのは望ましいことだ。けれども周囲や社会から家族愛を求められ、負担を強いられると、しんどくなり、関係も悪くなる。伝統的家族・家庭の回復を唱える人々は、そこを勘違いしているのか、別の意図があるのか。
この社会に暮らす人々はみんな大切だと考えるなら、家族依存をいつまでも続けるのは社会の側の手抜きである。
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