「九条の会アピール」を支持する京都医療人の会は1月6日、オンライン講演会を開催。「コロナ禍に日本国憲法を読む」と題し、藤原辰史氏(京大准教授)が歴史学者の立場から講演。73人が参加した。
藤原氏は、あらためて自民党「日本国憲法改憲草案」(2012年4月28日、以下草案)と比較しながら日本国憲法を読むことで、改憲勢力が日本国憲法のどこに苛立っているのかを知ることができる。16年に「棚上げ」されたとはいえ、自民党の憲法観のエッセンスには繰り返し立ち戻っておくべきとした。
改憲勢力は習近平氏やプーチン氏の体制よりも少しだけ「民主的」ラインを目指そうとしており、草案を読む限り人間の根源的な管理の社会をイメージしていることがわかる。
さらに、日本国憲法擁護だけでは、沖縄を切り離して、天皇を法体系と責任体系と人権体系の外に置くことでしか成り立たなかった日本国憲法と戦後民主主義と平和主義を問えない。憲法を積極的に利用して世の中を変えていく必要がある。
この2年間、コロナから多くの生命を守ることと引き換えに、基本的人権を一部制限することを暗黙裡に了解してきた。コロナ禍が「緊急事態」のラインを下げ、人々が違和感を持たなくなってきており、これを利用した改憲がよりリアルなものとなってきた。もし、草案内容が取り入れられるならば、緊急事態を恒常化し、戒厳令状態を続けることが可能で、その間、選挙で議員を選び直すことができない極めて危険なことになる。ナチス第三帝国の登場前、ブリューニング内閣が世界恐慌を乗り切るため大統領緊急令に基づいて次々に基本的人権を制限した。人々はその流れに慣れ、ヒトラーが政権をとり、緊急事態宣言を唱えて憲法を停止した。緊急事態条項がファシズムをなすが儘にさせてしまった歴史を知らなければならないと論じた。
草案との比較で重要として挙げたのが、①99条②13条③24条④36条⑤25条⑥前文、および9条。草案では、①憲法尊重義務から天皇を外すことで、その下で「自由な」政治を行うことを可能にする②「個人」(誰にも代えられない唯一不可侵の尊重されるべき存在としての個人)の尊厳より「人」(ただの生きる存在としてのホモサピエンス)としての安全管理が優先されてしまう③家族や自己の自助努力に依存し、それができない人間を憲法が救えない可能性④拷問を禁止しない独裁政権が実質可能になる⑤在日外国人の生存権が保護されにくい「国民」という言葉に注意(日本国憲法も)⑥歴史が積み上げてきた権利の獲得の重みが消える―と解説。
コロナ禍で、「生存権」が国によって守られなければならないということが何度も何度も問われた。ナチス時代には生存していい人々、生存する必要のない人々という分断が生まれ、現在もワクチンの普及の不平等というかたちで生まれている。ナチスは生きるに値しない生を健康ではない人間として障害者の人々を分類して断種、安楽死というかたちで排除してきた。私たちが普段使っている「健康」や「国民」という言葉に潜む「排除」をしっかりと見ていくべきことをコロナ禍で学んだ。生命を守ることは大事だが、それが抽象的な国民を守るため、一人ひとりの人権が制限されてしまったコロナ禍という時代は、歴史的に見ると世界大戦時に人々が味わった基本的人権の制限と密接につながることを見ておくべきと締めくくった。