水俣病の「公式確認」から68年目の昨年9月、米俳優のジョニー・デップ製作・主演で映画「MINAMATA」が封切られた。原案はフォトジャーナリストのW・ユージン・スミス氏(1978年没)とアイリーン・美緒子・スミス氏が1975年に発表した写真集『MINAMATA』。京都で環境保護活動を行っているアイリーン氏と協会の飯田理事(写真左)は、脱原発運動を通じて知己。今回、上映に際して映画化の経緯や水俣病との関わり、思いなどを聞いた。
映画化は広く伝える
大きなチャンス
──今日は、当事者として関わられた映画「MINAMATA」についてお話をうかがいます
映画化の話を初めて聞いたのは、2014年、7年前のことです。アメリカの若いシナリオライターから連絡があり、1975年にユージン・スミスと私が出した写真集『MINAMATA』(日本語版は1980年刊行)を原案にしてシナリオを書いてみた。これを映画化したいということでした。
映画化の話は過去に2回ありましたが、いずれも立ち消えになっていました。二つともアメリカからの話です。今回も半信半疑でしたが、ジョニー・デップ自身がユージンを演じたい、プロデュースも手がけたいと言っていると聞かされました。
現実味がぐっと増し、水俣病の患者さんたちの苦しみや闘い、大切なメッセージを、ハリウッド映画という今までとはまったく違う形で広めることができる。ユージンのことも、どういう信念を持ったジャーナリストだったのか。多くの人に伝える大きなチャンスだと思いました。
一方で恐怖心もありました。自分とユージンがどう描かれるかということもありますが、それよりも患者さんたちがどう描かれるか、それがものすごく怖くて…。
ですので、できるだけ監督の質問に答え、資料などはいろいろ渡しました。10年以上の複雑な出来事を2時間弱という1本の映画で伝えるわけですから、もちろん脚色もされます。実際にはもっとたくさんの方たちが運動に関わり、また支援をしていた。でも映画では全員が描写されているわけではないので、実際の人たち、実際の出来事を知る私としては複雑な気持ちです。でも、映画を鑑賞してくれた方たちの反応が宝物だと思います。
こんなことが日本で起こっていたのか、こんなことを昔の被害者はやり遂げたのかなどという感想がいろいろな方から聞こえてきます。若い世代は、こんなことがあったことすら知らなかったと伝えてくれます。そして何ができるのかと尋ねます。
上映会場で写真集のサイン会を1回だけ開催したのですが、30代くらいの方が涙を浮かべながら、何かをしたいけれども、あまり知識がないのでどうしたらよいのかわからないと悩みを話してくれました。そういう出会いもありました。
こうした問いになんとかして答えること。それが私自身の現在の宿題だと思います。
――映画では、エンドロールで強いメッセージが発信されていました
そうですね。エンドロールで、日本政府はミナマタは終わったと言っているが、被害者はまだこんなにもいるんだとしっかり出してくれました。これが本当に嬉しかったです。また、世界のいろいろな場所で起こっている公害問題を紹介し、公害は発展途上国にも先進国にもあるんだと訴えて映画は終わっています。メッセージ性がある終わり方だったと思います。
ベルリン国際映画祭でワールドプレミア(世界最初の試写会)が開催された時も結構反応がありました。映画は21年11月現在世界各地で上映中です。海外からも日本政府に対して声を上げてもらえればよいと思っています。
国は真に被害者救済を
──水俣病問題に関わるようになったきっかけは何ですか
映画では私がユージンを水俣に連れて行くみたいな描かれ方をしていますが、あれは事実とは違います。
私がユージンと出会って、ニューヨークで彼の写真展を手伝っているときに、日本から元村和彦さんという方がユージンに会いにきて水俣のことを教えてくれたんです。彼の話を聞いて、すぐにユージンと私は水俣に行くことを決めました。そのちょうど10カ月後、水俣入りしました。50年前の9月7日です。
今回の映画公開を機に、絶版になっていた写真集を再刊しました。ユージンと私が1975年に出した本ですが、日本語版の出版は80年です。ただし、歴史はそれから何十年も続いているわけですから、今回の再版にあたって、巻末にその後の水俣病についてまとめた文章などを収録しています。元新聞記者の斎藤靖史さんが書かれた「水俣病
歴史と解説」が、わかりやすくこの65年間についてまとめてくれています。医学については、頼藤貴志先生が「水俣病 医学からの報告と解説」を書いて下さっています。
――今後の活動の方針はありますか
政府のこの65年間の政策、方針を変えさせるということが目標です。それは水俣だけでなく、原爆被爆者の問題でも福島の問題でも同じだと思います。
水俣病に関しては、ちゃんとした疫学調査が今まで1度もされたことがありません。09年施行の「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」の中では調査をするべきだと書かれています。それに基づき、患者と支援者たちが早く調査をしてほしいと言っています。しかし、政府は「調査方法をどうするか今検討中だ」と言うのです。何年間もそう言い続けています。これが今の現状です。
今政府に要求したいのは、スタディデザイン(研究デザイン)を発表して下さい、ということです。ご存じの通り、疫学調査は、これで勝負が決まってしまいます。
国にまずスタディデザインを出させて、ちゃんと被害を拾い上げる調査となるようそれを世界の専門家に批評してもらいたいのです。それが第1のステップ。第2は、よいスタディデザインとなったらそのデザイン通り実行する。そして第3に、その結果にどう対応するか。この三つのステップがあると思います。それを実現したいと思っています。一人でもやってやるぞという気持ちでいます(笑)。しかし、実際には専門の研究者の方々が患者さんや支援者と一緒に力を合わせないとなかなか難しいです。
もう一つ、水俣と新潟の裁判の支援です。新潟でも水俣病が起こりました。新潟と水俣とを合わせると、まだ10件の裁判が続いています。
特に強調したいのは、汚染が一番ひどかった当時の水俣で、親は認定されていても、当時3歳か4歳の子どもが認定されていないことです。小さい頃から魚を食べ続け、物心がついた頃から自分の体はこういうものだと思ってしまっているんですよ。痺れがあったり、感覚がなかったり、ひどい頭痛がするとか。
政府は古い水俣病像に非科学的にしがみつき、多くの被害者を認めようとしません。先日の裁判でも彼らの苦しみを否定しました。
公害問題と医学の役割
──私自身、10年以上前に水俣のことを一時期熱心に勉強していたことがあります。「御用学者撲滅運動」と自分で言っていましたが、そちらの方に関心がありました。この問題は今もほとんど変わっていないと思います
先ほど、疫学調査と裁判についてお話ししました。すごく大きいのは認定審査会が機能しなくなったことです。毎年1500人~2000人が申請していますが、認められた人は何年間もゼロです。
ですから医学、疫学、そして公衆衛生の責任は大きいと思います。認定制度は批判されたりしていますが、もっと多くの専門家が主張しないと、そしてそうした批判が社会運動にならなければ制度が作り直されることはありません。現在の認定制度はむしろ、門を閉じておくためのものとなっています。まず申請主義がいけないと思います。
──水俣病もそうですが、日本の公害問題というのは、医学は比較的早い時期にその原因にたどり着くんです。しかし、たどり着いてからがややこしい
残念ながら、水俣病はそのお手本ですよね。何らかの重金属による中毒だということはものすごく早い時期にわかっていました。そのことだけでもさらなる摂取は規制できたのです。毒のメカニズムまではわからなくても、魚に毒が含まれているわけですから、食品衛生法で動けるはずだったのが機能しなかった。
──国が隠蔽してしまう。水俣は、そういった問題が極めて大きなスケールで現れた典型ですね
世界の水銀汚染って、まだ被害はうなぎ上りです。どんどんひどくなっている。大気中に一番水銀を排出しているのが火力発電所です。水銀や水銀を使用した製品の製造と輸出入を規制する「水俣条約」という国際条約があります。21年11月にインドネシアで「水俣条約」第4回締約国会議がオンラインで開催されました。それでも前に進んでいません。火力発電所は温暖化にも影響を与えていると指摘されていますが、水銀も大気中に排出しているのです。だから火力発電所を止める運動は、水銀汚染を止める運動でもあるのです。
あと、水俣にジョニー・デップを連れて行きたいんです。水俣病センター相思社の歴史考証館を訪問してもらいたい。そうしたら、「ジョニー・デップが来たところだ」ということで多くの人が足を運んでくれるのではないかと思って(笑)。
──入口がミーハーでもそれが考えるきっかけになればよいということですね
そうです。入口は何でもいいんですよ。ちょっと興味があってふらりと行って見たり、触れたり、読んだりしているうちに、どんどん興味が広がって、結局は専門家になってしまう。そういうことだってあるじゃない。好きが昂じてね。そうやって、医師になりたての頃は社会的な問題に興味がなくても、ジョニーが大好きという理由で水俣を訪れたことで、その20年後くらいに何かすごいことをやる。そんな人だって出てくるかもしれない。何が起こるかわからない。そう思っています。
──本日はありがとうございました
アイリーン・美緒子・スミスさん(写真右)
1950年、東京生まれ。アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ。1968年、スタンフォード大学入学。1970年に、語学力を生かして通訳者として富士フイルムのコマーシャル制作の仕事に携わりユージン・スミスと出会い、結婚後すぐに水俣に移住。1983年コロンビア大学にて公衆衛生の修士号取得。1991年、京都市で環境市民団体グリーン・アクション設立。
年 出来事
1956年 幼児姉妹が原因不明の神経障害でチッソ附属病院に入院し、病院が水俣保健所に報告。これが水俣病公式確認とされている
1959年 熊本大学研究班がその原因を有機水銀と結論づけた。しかし、国による必要な調査はなされないまま
1968年 政府は水俣病の原因をチッソのメチル水銀と認め、水俣病を公害病と認めた
1969年 熊本水俣第一次訴訟。以降、二次訴訟、三次訴訟等、次々と訴訟に
2000年 熊本県と鹿児島県で合わせて2,263人が水俣病に認定され、10,350人が水俣病総合対策医療事業の対象として救済
2005年 ノーモア・ミナマタ訴訟。水俣病の発生・拡大は国、熊本県の責任と断罪し、行政認定制度で棄却された人たちにも水俣病被害者が存在することを明確にさせた
2009年 水俣病特措法が施行。法律は国に対して住民の健康調査を課しているが、いまだに実現はしていない
2012年 7月末に特措法による救済申請が締め切られた。3年間で約5万3千人が救済
2013年 救済もれの人々を助けたいとノーモア・ミナマタ第二次訴訟が提訴される
2014年~ 環境省が認定に関する新たな新指針を策定。棄却処分が強行され、現在約1400人がいまだに認定申請中。国などを相手に裁判を続けている人も約1,700人いる状況