早々とレセプトチェックを終え、この拙文を書き始めた6月1日は沖縄県のCOVID-19新規感染者数がほぼピークに達し、全国ワースト1になった日だった。
小生は昔の琉球とその文化に大いに興味があり、幾度と渡沖の上、我楽多を蒐集しその素晴しさを2007年より年2回約15年間、発行継続中の京都桂東洋医学センター誌(現在27号)に取り挙げている。例えば新城あら ぐすく島で作られたパナリ焼や古窯跡も訪れた喜納・知花を始めとする多種多様の焼ヤチ物ムン、中国の影響を受けたものの16世紀から琉球王国の貝摺かい ずり奉行の主導下、夜光貝・金粉・黒漆を用いた螺鈿ら でん、沈金ちん きん、堆錦つい きんおよび日本由来の油彩・密陀絵みっ だ えなどの漆芸、さらに今年100歳を迎え芭蕉布の復興に情熱を注がれた尊敬する人間国宝・平良敏子さんの紹介を兼ねた独特の染織など、枚挙にいとまがない。
しかし、この依頼原稿には2013年11月13日上梓した第12号第8章の元市立病院同僚と不定期に開催している「江戸美術同好会」での無駄話「北斎の描いた琉球・琉球八景―今の琉球八景を歩いて―」の縮少・改訂版を載せたいと思う。
それは在琉中に必ず立ち寄る宣野湾の榕樹書林で手に入れた琉球八景の内、七景「城嶽霊泉じょうがくれいせん」(図1)などからも解かる来琉したはずもない改号・転居マニア北斎の驚愕表現と、当時ではかなりの長寿90歳で没した雅号・画狂老人卍の墓参りエッセイである。錦絵「富嶽三十六景」で名をはせ、後に「富嶽百景」を発表した北斎だから当然、日本一の霊峰富士が大好きだったのだろう。この琉球八景の中にも不二オタク北斎のイリュージョナルな仕掛けがちりばめられている。
六景には遠くの海上に浮かぶ仏の「モン・サン・ミッシェル」のようなそれ、また七景には「凱風快晴」を連想させる均整のとれた赤いもの、究極は八景の南国なのに頂上に雪らしきものを冠した日本人のアイデンティティをくすぐる「心象幻景」(図2)である。
ところで異才・北斎の墓参は13年夏、学会出席を機会に長女を連れて、東京下町巡りの一つの楽しみとしている銭湯探索(熱湯風呂と名前が気に入った蛇骨湯)も目的に訪れた。そのお墓は台東区元浅草の誓教寺にあるが、墓石正面に「画狂老人卍墓」と大書し、右側面には辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれていた。句碑風の設は洒脱で実に北斎らしかった(図3)。しかし、ワクチン接種を終えたとは言え沖縄・東京にはN501Y&E484Kの同時流行が懸念されるこのコロナ禍では、特にぶら歩きをすることは少々難しく、平和な約8年前を懐かしく思い起こした次第である。
図1 北斎の琉球八景の内 七景城嶽霊泉
図2 六景(上)、七景(中)、八景(下)
図3 北斎の墓石