私の趣味 日本百名城60番目の訪問 丸岡城と日本一短い手紙 尾崎 望(右京)  PDF

 昨年9月、妻と二人で福井県の丸岡城を訪れた。私たちにとって60番目の日本百名城である。この城は姫路城や大阪城のような堂々とした威容こそ感じられないが、こじんまりして質素なつくりがいい。つい最近まで、現存する日本最古の天守閣とみなされていただけあって、灰色の石瓦は素朴で美しく、長年の風雪に耐えてきた重みすら感じられる。私にとってお城めぐりが面白いのは、城のあるそれぞれの地の風土と文化に触れられることが大きい。丸岡城には徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送ったあの有名な手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」(写真)の石碑がある。ここに言う「お仙」とは後の丸岡城主・本多成重(初代丸岡藩主〔幼名:仙千代〕)のことである。この石碑が縁で、日本一短い手紙文の一筆啓上賞が始まり、毎年テーマが決められ全国から日本一短い手紙(40字以内)が多数寄せられる。今年で29回目を数えるとのこと。昨年は、たしか「笑顔」がテーマだったように記憶しているが、私の子どもたちや孫たちも応募した。結果は残念ながら惨敗に終わったが、一時の興奮を味わうことができた。
 もう一つ、私にとって丸岡で印象深いことに、中野重治の生家が城近くにあり、中野はこの城を見て育ったらしい。中野は転向したプロレタリア作家と評価されており、その点でこれまでいささかの関心を持ってはいたが、その作品を読んだことはなかった。これをきっかけに中野の評論集や中野について書かれた伝記に目を通してみた。詩、小説、評論と実に多作である。戦前は日本プロレタリア作家同盟の幹部をつとめ、その作風はリアリズムにこだわり、似非リアリズム作家への批判は極めて厳しい。巷間伝えられるように、中野には戦時中に投獄され、いわゆる転向を表明して出獄した経歴がある。が、「転向」ののちも天皇制と戦争に反対する立場で、当時許される範囲内で論陣を張っている。戦後共産党の参議院議員になり文化の分野で活躍し、その後除名された経歴もある。中野の文学観は時代とともに少しずつ変化しているように感じられるが、究極のところ文学はあくまで文学であり政治の道具にすべきではない、ということかと私には思われる。
 こうしたアフターケアをもって、私の丸岡城体験は終了した。コロナ禍で最近はお城めぐりから遠ざかっている。世間が落ち着いたら、次は宇和島か大洲城あたりを狙っている。

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