死んでたまるか 18 ただいま、リハビリ奮戦中 垣田 さち子(西陣)  PDF

私たちはどこに向かうのか

 20年末に母が亡くなった。96歳だった。
 日本人はいつから火葬を当然とするようになったのだろう。
 小学生になった頃だと思うが、母方の祖父が亡くなり丹後の農家のお葬式に母について行った。その時のことを部分的に思い出す。棺は樽だった。まさに棺桶である。座して納められ、縄をかけて棒を通し男の人たちが担いで村外れの墓地まで皆で行列して運んだ。墓地にはすでに深い穴が掘ってあり、丁寧に納めて全員で上から土をかけてあげた。幼かったが、大人たちの振る舞いを習い違和感なく一人前の葬式参加だった。
 数年前、武者小路千家のお家元のお供で雲南省の山奥まで“茶樹王”(お茶の木の元祖)に会いに行ったことがある。北京で国内線に乗り換えて中国の西南部最南端の空港・シーサンパンナまで行った。地元のおっちゃんたちが頭を寄せて花札のようなことをしているのんびりとした小さな空港だったが、国際空港と看板があり驚いたものだ。ミャンマーとの国境近く、麻薬ルートとして重要な地点らしい。バスをチャーターしてどんどん山の中へ入って行ったのだが、途中で少し遠くに賑やかそうな人の列があった。幟を立て、白っぽい服装で、鐘や太鼓の音も聞こえた気がする。とっさに幼い頃に経験した田舎の祖父の野辺送りを思い出していた。懐かしく親しみの感情に満たされた。雲南省は多数の少数民族が暮らしているところだが、いずれにしても土葬だろう。
 「火つけて燃やすなんて可哀想や」と思うことが多かったが、大晦日の京都中央斎場は多くの人であふれていた。コロナ禍で、「一家族、10人まで」との制約を言われどこへも連絡することができず、慌ただしいお見送りになってしまった。
 多死社会といわれ、葬送自体が困難になっている事例も聞いていた。東京では火葬の順番待ちで10日もかかることがあるらしい。ご遺体をお預かりする専用の建物がいくつもできているそうだ。また、新型コロナウイルス感染症で亡くなった場合は、ご遺体にも会えず、全て処理された結果お骨の入った容器だけが届くそうだ。先の大戦では箱の中には骨でなく石が入っていたというが。
 2時間もしないうちに、母はきれいなお骨になってしまった。
 数日前の電話で「もうしんどい。死にたい」と初めて弱気な発言があり、「お母さんよく頑張ってるもんね」と言ったものの、ついいつものようにああしろこうしろとチェックを入れている。「もっと優しくゆうてちょうだい」と言っていた。母のことを一番分かっていたのは私だし、私の最大の応援団は母だった。「先立つ不幸をお許し下さい」の決まり文句があるけれど、私が発症してからはしんどい日々だった。人一倍、心身ともに強い人だったが、リハビリに来なくなり、足腰が弱って行き、予測通り型通りの終末を迎えた。精一杯大正、昭和、平成、令和と激動の日本現代史を生き抜いた。先代、先々代、その前と繋がるチェーンを実感する。さて、私たちは、これからどこへ向かうのか。

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