優生保護法の実態を学ぶ 歴史と現在をテーマに講演会  PDF

 旧優生保護法では1996年に母体保護法に改正されるまで強制不妊手術が合法化されており、多くの人々の生殖を不能にする不妊手術を強制する重大な人権侵害が行われてきた。協会はこの問題についての意見をとりまとめ、談話と発出のために作業を進めており、3月28日に講演会を開催した。

 講師に招いたのは松原洋子氏(立命館大学副学長)。同氏は科学史、生命倫理学、科学技術社会論、特に優生学史のパイオニアであり、国の「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給に関する法律」に基づく支給認定の審査会委員も担う第一人者である。
 松原氏は「優生保護法の歴史と現在」と題して講演した。
 優生保護法は終戦間もない1948年、占領下で公布され〈優生手術〉〈母性保護〉〈優生保護相談所〉の3本柱で運営された。法の目的に「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と明記、〈優生手術〉において医師の申請に基づき都道府県に設置された審査会が認めれば本人同意がなく生殖機能を奪う強制不妊手術を認めていた。1996年、同法は「不良な子孫」をはじめ優生思想に基づく文言を全て削除、手術も「不妊手術」に言い変え、名称も母体保護法へと改称された。
 日本には同法以前にも強制不妊手術を認める国民優生法(1940年)があった。だが法案への反対論も強かったため、政府は強制不妊手術に関する条項の施行を凍結した。むしろ、戦後制定された優生保護法は旧法以上に「優生思想」を強化したものといえる。当時の芦田均厚生大臣はエッセイ「新時代の厚生行政」(1946年1月『日本医事新報』)で「民族復興」のための「国民の優化」「民族形質の向上」を謳った。優生政策強化と文化国家建設は矛盾することなく語られていたのである。法案の提案理由には、食糧不足と人口飽和の解決策としてのバースコントロールとともに、「人口の質」を高めることが謳われた。「逆淘汰」 ⅰに陥らせないことの重視である。
 強制不妊にあたっては身体的拘束・麻酔薬使用・欺罔さえ許された。当時の法務庁(後の法務省)は、それらは基本的人権を制約するが、同法の「不良な子孫の出生を防止する」目的は公益上のものであり、医師が「公益上必要である」と認めたことを前提にしているため憲法違反でないと説明した。
 70年代、「青い芝の会」ⅱ の運動があり、同法が差別・人権侵害をもたらすものとの認識が浸透しはじめた。80年代には厚生省自身も問題を認識していたが、政治的力関係を背景に同法が転換されたのは1996年だった。それも拙速な変更であり実態が明らかにされないままの法改正であった。
 国連・女性差別撤廃条約委員会が2016年、日本政府へ実態調査・補償を勧告。同年7月に相模原事件が起きると「優生思想」問題は急浮上した。2018年1月、被害者による初提訴があり、マスメディアなどで若い記者たちが積極的に強制不妊手術の実態を取り上げ、社会で大きな反響を呼んだ。超党派議員連盟や与党ワーキングチームも動き、補償法制定に至った。
 今日の問題であるゲノム編集や遺伝子治療の是非を考えるには歴史を知ることが重要である。
 補償法第21条に基づく国による検証作業はいまだ開始されていない。医師・医学者が積極的に検証に協力することが求められる。

 協会注ⅰ 優生保護法制定の中心人物である谷口弥三郎氏は産児制限が「民族の逆淘汰」を産む可能性に言及。避妊を実行し、バースコントロールできるのは教育程度・生活程度の高い「優れた人たち」。バースコントロールに関心を持たないような人たちの子ばかりが増えると民族の「逆淘汰」が起こるなどと述べた。
 ⅱ 青い芝の会は脳性マヒの当事者の団体である。当時頻発していた障害のある子を親が殺害する事件に対し、殺した親に世間の同情が集まるという現実と胎児条項とを重ねて捉え、「障害児は生まれるなというのか」と猛烈な運動を展開し、車椅子で厚生省に詰め寄った。その運動は革新政党や運動団体に新たな視点を獲得させた。

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