医療には二つの役割があると思える。高次医療と一般医療である。高次医療というのは設備と専門家のマンパワーを結集して、普通は助からないような重症病者を救う高次救急医療とか、あるいはがんや難病を治すための特別な医療を指す。ただ、患者さんの絶対数や受診頻度は少ない。カゼや下痢、あるいは血圧が高いとか、さほど生命に別状はない身体の不具合に対応していくことがほとんどである。こうした医療が一般医療で、医療全体のたいへん多くの部分を占めている(田村豊著『「町医者」だからできること』)。
私の診療所に来られるかたも大部分は、さほど生命には別状のない患者さんである。しかし、そんな患者さんしか来られないと思っているとひやりとする重症者が受診される。
ここ十年間病院にかかったことはないと豪語されるFさんもそんな一人である。
「腹のけいれんがあるので、なんとかして下さい」
「なにか特別のものでも食べたのですか」
「実は、昨日、牛肉のたたきを食べたのです」
「いつから、けいれんがあるのですか」
「昨日の夕方8時頃に胸のあたりが痛くなって、そしたら、むかついて、ちょっと吐きました。その頃から、腹がけいれんしています」
「それで、下痢はひどいですか」
「腹なんか下っていません。屁はよく出ますけどね」
「まあ、一発注射してもらえたら、それでよいのです。すぐに帰りますから」
どうも医者が好きではなさそうで、すぐに帰ろうとする。
「ところで昨日の胸の痛みって強かったのですか」
「そりゃ、死ぬかと思いました。夜中にも、もう一回胸が痛くなって。だから、いやいや医者に来たのです」
「これまで、心臓が悪いと言われたことはないのですか」
「自慢じゃないけど、医者にかかったのは十年ぶりです。心臓が悪いなんて思ったことはないです」
食あたりかな、それでも心筋梗塞もあるな、と思いながらおもむろに嫌がる患者をベッドに寝かせて診察に移った。
「お腹がいやに硬いですね。痛くないですか」
「ちょっとは響く感じがするけれど、痛くはないです。もう診察はいいですよ、はやく注射して下さい」
「あのね、これは重大事ですよ。お腹が硬いっていうのは腹膜炎といって大変なことなのですよ」
「だって、たいしてしんどくないですよ」
「しんどくないと言っても、しぶしぶ嫌な医者に来るほどしんどかったのでしょ」
ここまできて、胆嚢炎、膵炎なんかを考えてみた。ガスは出ていると言っているが腸閉塞もありかなと考えた。
「お腹のレントゲンを撮ってみましょう」
「えっ、レントゲンですか。先生がそういうのなら、もうどうにでもして下さい」
レントゲンを撮ってびっくりしたのは、こちらである。立派なフリーエアがあるではないか。患者さんの勢いに押されて帰宅させていたらと思うとぞっとする。
「先生、レントゲンの結果はどうでしたか」
「あのね、胃か腸が破れていますよ。だからお腹がけいれんするのです」
「お腹が破れているって。そしたら、どうだというのですか」
「手術ですよ。手術」
「手術ですって。そんなこと言わないで、このまま診て下さい。注射一発で帰りますから」
「だめです。紹介状を書きますから、病院に行って手術を受けて下さい」
手術の結果は立派な胃がんで、中央の深い潰瘍が穿孔していた。
後ほど広報で知ったことだが、当時Fさんは長らく国民健康保険を使ったことがなく、健康家族として町から表彰されていた。町でFさんに出会った際に、病院に行っているか聞いてみたが、通院をさぼっているようであった。病気の進行具合にもよるが、これからも健康家族として町から表彰されることになるのだろうか。
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