怒濤の和医大リハへ
救急搬送から超急性期リハビリを経て、和歌山県立医科大学附属病院へ転院した。
田島博文教授の第一声は「先生、良く助かりましたね」だった。「高齢で重症で、こんなリハビリの甲斐のない患者を受け入れていただいてありがとうございます」とお礼を申し上げると、田島先生は「高齢ではありません。今現在は重症ではありません。甲斐があるかどうかは私たちが決めることです」ときっぱりおっしゃった。来てよかったと思った瞬間だった。
入局させていただいて以来、娘たちはずっと田島先生に師事し、今回、私のリハビリについても相談していた。もちろん、私も学会などで顔を合わせており、以前から存じ上げている。「やるべきことはやるべし。報酬は後からついてくる」という総会での発言には感服した。基礎研究を重視し積み上げていくリハビリに対する真摯な姿勢を、尊敬の念を持って拝見していた。
転院を決めた時、夫と息子は和歌山まで行くことに消極的だった。ここでも娘に「このままでは寝たきり。寝たきりのお母さんの介護ができるのか」「自立が先だ」と押し切られたようだ。直接、息子から「本当に行くの?」と尋ねられた時には、体調を崩している下の娘のために行くと答えた。
搬送された武田病院には本当にお世話になった。目が覚めたら常に担当医が目の前にいる状態で、チームで助けてもらった。入院中、医療職がきびきび動く様子を見ていたら、なんだか安心して、自分も頑張らなければと励まされた。そしてやっぱり自立したい。そのためにもアグレッシブなリハビリを受けたいと考えるようになったのだ。
和歌山に向かうのに介護タクシーを利用した。交通網が整備されたおかげで、京都からは約2時間半。昔に比べれば随分近くなったものだ。しかし、ハンディキャップがあるとちょっとしたことが怖い。今、この状況で交通事故にあえば私は助からないなと考えたり、南海トラフ地震が発生したら、私は絶対逃げられない、溺死やな、などと考えたり。不安が増幅する。こういう思考に陥るということも発見だった。「大丈夫。何とかなる」と常に前向き、楽観的だったのに、付き添っている娘の手をずっと握っていた。