ひとり暮らし
やっと、爽やかな季節になった。往診の帰りに回り道をしてみた。この裏通りは、何年も前、毎日のように往診で通った道である。往診していた患者さんのお家は取り壊されて、ぽっかりと空き地になっている。この空き地にあった古びれた借家で、Mさんは男ひとりの暮らしを続けていた。
私の日課は、診療所の玄関を開けることから始まる。Mさんは私が玄関を開ける前に来て、玄関の前で待っておられた。待合室のカーテンを開け、照明を点けて診療の準備をするのを手伝ってくださった。
こんなMさんに肺がんが見つかったのは七、八年前の夏である。たまたま撮った胸部写真に小さな結節影が見つかった。七〇歳代半ばのMさんだが、今のうちに治療すれば完全に治ると思えた。
「紹介状をもって病院に行きましたか」
「ええ、とりあえず検査をしようと先生がおっしゃって、入院の予約をしました」
「でも、もう二カ月も前のことでしょ。まだ入院の連絡がないのですか」
直接、病院に問い合わせると、受診しているが検査も受けていないという。その病院では入院の申し込みもしていない。
それでも病院からの連絡待ちをしていると言い張るのだが、連絡が来るはずはなかった。
せっかく肺がんが早期に見つかっているのだから、治療すれば治るチャンスもあるのにと、気を揉むのは医者ばかりである。
「なにを心配している。心配することないって」
「だって、ほっといたら大変なことになりますよ」
「ガンだというくらい分かっとるわい」
「……」
「そうか、わしが一人暮らしだから、死んだ後のことを心配しとるな」
最初の一、二年間で少しずつ腫瘍は大きくなっていたが、それでも最初の三年間は全く自覚症状もなかった。お互いが病気のことを話題にすることもなく、私も成り行きを見ることに決め込んでいた。
「食事はちゃんと食べていますか」
「ええ、自分で調理している」
「Mさんは、ひとり暮らしでしょ。寂しくはないの」
「いや、気楽でいい。わしの人生はずっと一人やった」
三年が経つ頃になると、Mさんの様子も随分と違ってきた。だんだんと痩せが目立ち、下肢もむくんできた。それでも、ヘルパーさんの食事は食べず、ふらつく足取りで出かけては買ってきたビールを口にしていた。
三年目の夏になると体力は急激に衰えて、部屋の中を這うこともできなくなった。話をしてもすぐに息があがる。ヘルパーさんや看護師さんで毎日三回訪問してもらうことにした。昼間の食事時間帯に訪問してもらって、着替えや食事の世話、清拭をお願いすることにした。夜間は私の担当として、夜診の後で訪問することにした。
Mさんの部屋には冷房はなく、閉め切った室内はむしむしとしていた。夜間は電灯が消えていて真っ暗闇である。懐中電灯をたよりに電灯のスイッチを探し当てる。Mさんは黄ばんだ布団で動くこともない。紙おしめを外してしまうものだから、パンツや布団に便が染み付いている。触れようものなら服に便がついてしまう。
「もう身動きがとれん、よろしゅう頼む…どうして、人間は生きているのやろ…病気が治りたいとは思わん、早く死にたいだけ…早く、眠れるところに行きたい」
朦朧とした意識の中でMさんが発した言葉である。
わずかずつ飲んで生き長らえていたポカリスエットもついに飲めなくなった。
そして、肺がんの発見からちょうど四年目の朝、ヘルパーが訪れたとき、Mさんは息絶えていた。ベッドから降りようとしたのか、苦痛を振り払おうとしたのか片手をあげた姿勢で硬直し冷たくなっていた。
病気のすべてを自然に任せたMさんであった。ぽかんと空いた空き地を眺めながら、毎晩通ったMさんのことが思い出されてならなかった。