京都市がどのようなプロセスで政策決定を行ってきたか、その基軸は一つではない。
歴史的に変遷を辿れば現在の問題も見えてくる。
市政分析と言えば、市長交代に伴う政策変化に着目しがちである。しかし2000年頃に至るまで、京都市政に大きな影響を与えたのが「京都財界」の存在である。
京都財界を代表する組織の京都商工会議所の会頭は、1960年代までは「伝統産業派」と呼ばれる人たちが担ってきた。70年代になると60年代に経済同友会で勉強会を続け人脈を形成してきた「近代産業派」の人たちが京商会頭、役員を担うようになった。いわゆる「京都財界」だ。彼らは京都の経済発展の原動力を産業政策、地域開発に求めた。京都タワー建設論争は象徴的である。近代産業派が主導した経済同友会は、京都タワー建設に反対だった。当時ブームであったタワー建設は観光による経済振興だったが、彼らは当時の観光収入は2000億円程度で、産業の出荷額はその5倍以上ある。観光より産業振興と強く主張していた。彼らが主導権を握った商工会議所は政治的には当時の蜷川府政と猛烈に対立した。1980年代に入ると同友会の名で京都開発の提言を矢継ぎ早に出した。
1981年に「近畿に活力を!たちあがる京都からの提言」「新しい京都づくりへの提言:新平安京―二極群体都市の構想」、83年に先端産業育成、新京都御所(迎賓館建設のルーツ)、地下鉄や高速道路建設が相次いで提言され、「新生京都をめざして」では「京都市長私論」が取りまとめられた。「京都財界」と京都市が連携し、国の開発計画とリンクしながら進められた。
1985年設立された「平安建都1200年記念協会」が牽引車となった。彼らは「高速道路・高層ビル・地下鉄」が揃ってこそ近代都市だと主張した。そして実際に高速道路は開通し、高さ規制は緩和され、地下鉄も開通した。しかし一連の事業が現在の膨大な財政赤字の原因となっている。
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