関 浩(宇治久世)
第2回 吉田口ルート登山口
ツアーバスが八重洲口の待ち合わせ場所より山梨県側の富士スバルラインの終点、五合目の吉田口(河口湖口)ドライブインに着いたのが14時過ぎだった。五合目2305mまでの目的の観光客でごった返している。混雑するだけで買い物には熱心でない外国客が多いせいか、売り場の従業員はどこか投げやり、つっけんどんな態度、まるでこれら観光客の母国の店員みたいだ。3階に上がり、ここで身支度を整える。
関東では8月に入り、16日間連続の降雨記録更新中で、ここ登山口でも小雨が降り続くが、雨対策も十分してきたのだ、いよいよだと気持ちがはやる。出発地点に集合したのはガイドとツアー会社の女性を合わせ40人近く、20代、40代、我々60代以上の3集団で成っている(写真)。手上げで富士はほとんどが初登山と分かった後、50代後半とおぼしき屈強なガイド氏はフムフムとうなずき、「自分についてきてくれたら大丈夫。急がずゆっくりと、のどが渇いたと感じる前に水分補給をしっかり」と指示する。彼はなかなかの愛煙家、休憩の都度、煙草をふかす。
入山口でトイレの新設・改修などの環境保全対策、救護所の拡充などの安全対策に使われる「登山協力金1000円」を支払う。義務でないせいか、あるいは知らないのか外国人は素通りが多い。2017年度の登山者は約28万4900(外国人約4万)人で、昨年より約3万9000人多く、約16%も増えたが、支払った人は約6100人多い約15万2300人で約4%増、協力金の総額も約650万円多い約1億4900万円で約5%増えただけだった。結局、協力率は53%にとどまり、昨年より6ポイント低下した。富士山の「信仰登山」が「観光登山」へと変貌を遂げた以上、環境保全・安全対策のためには、「お願い」ではなく「入山料」として諸外国で見られるような強制徴収にしてもよいと思う。
五合目2305m~六合目2390m標高差85m
15時30分出発、思いがけず、すぐに道は下っていく。広くて眺めの良い道で、晴れた日には八ヶ岳や奥秩父などの山並みを左手に楽しめるという。ウオーミングアップにはちょうどいい。しばらく行く(約900m)と五合目より低い泉ヶ滝(2280m)の分岐から右手へ、ここから登りが始まる。ダケカンバやカラ松の森の中、隠し道の雰囲気が伝わる。
富士の形成を簡単に見てみると、数十万年前~10万年前に、先小御岳せんこみたけ火山ができ、その後に小御岳こみたけ火山(吉田口5合目に小御嶽神社、須走口5合目に古御嶽神社がある)が形作られ、10万年前~1万年前に小御岳に寄り添う形で古富士火山がうまれ、これが富士山のもととなる。
その後も火山活動は続き6000年前、古富士と同じ火口から新しい噴火が始まった。頂きをさらに高くのばし、すそ野を広げていった。その溶岩と灰は三角のテントで包んだように小御岳と古富士の上につもり、高く大きく整った姿が完成し、現在の富士山の形になった(図1)。
1500年前ごろには文字に記され、文や歌となって残された。平安時代の初め「延暦の噴火」(日本後紀800年)「貞観の噴火」(日本三代実録864年)とたびたび噴火や溶岩の流出がおこった。当時富士は尊い山とあがめられ、山伏や僧のほか登ることは許されなかった。鎌倉、室町時代は煙も途絶えがちで、富士を記す文書も少なかったが、戦国時代になると麓の神社にこもって神の山にお参りする「富士講」という集まりがおこり、普通の人も山開きの時だけ登ることが許されるようになった。江戸時代になり、さらに富士講は盛んになり、登山者が増加した。前兆とみられる地震の頻発があり、徳川綱吉の世1707年、南東の山麓より「宝永の噴火」がおこった。広範囲の地域にわたり多量の火山灰が降り注ぎ、田畑、村落に壊滅的な被害をもたらし、また100㎞も離れた江戸でも黒い煙で昼間も暗く、噴火は2週間も続いたと記録に残る。