船井の医療の移り変わり  PDF

開業医は夜中起こされるもの
 玄野 仁丹先生は、垣村さんと同じ時代、園部を開業医という立場から見てこられましたね。
 仁丹 私は大学卒業後、京都第一赤十字病院に勤めました。当時は勤務医をしながら夜間開業ということができた時代で、1963年に開業しています。昼は第一日赤、とんぼ返りで夜は園部で診療です。67年に医院での患者数が増えてきたため日赤を退職し、開業医に専念することになりました。
 当時の園部は、今ほど医療機関は充実していませんでした。救急車もなく、夜電話がかかってきては往診に行かなくてはならないという時代でした。しかも道路も整備されておらず、あるお宅に往診に行くときなどは、道がないので車を降りて山道を長く歩かなくてはならないということもありました。そこに垣村さんがお話しされたように、野中一二三町長の進軍ラッパがなったわけです。以後園部町の医療行政も進んでいきましたね。
 往診カバンをぶら下げて走り回っていた時代は、今思えば懐かしいですな。夜中に往診して「あ、これは急性虫垂炎だ、すぐに手術しなければならない」。こういうときは当時は公立南丹病院(現京都中部総合医療センター)に電話します。ところが、「今日は耳鼻科の先生が当直なので手術できません」(笑)。しかたがないので自分の車に患者さんを乗せて、第一日赤まで走ったことがあります。道路も今はバイパスがあって走りやすくなっていますが、当時は曲がりくねった老ノ坂峠を越えて京都市内に行かなければなりませんでした。
 廣野 私も、園部生まれの園部育ちですので、垣村さんのお話は、子ども心に覚えていることがありますね。1972年くらいまでは園部にいました。その後東京の学校に行き、平成になって帰ってきました。帰ってきたときはバブルの終わり頃で、まだ一二三さんが町長でした。建設が盛んな町政でしたね。
 私が子どもの頃の開業医というのは夜中に起こされるものでした(笑)。子ども心に、夜中、戸をドンドンドンと叩かれる音が嫌で。それがまさか自分が園部に帰ってきて開業医になるとは思ってもいませんでした(笑)。園部に帰ってきた頃はだいぶ医療の状況も変わってきていましたが、それでも私も、骨折したおばあさんを車に乗せて近くの病院まで運んだことがあります。医師がまだ、患者さんのいろんなことに関わっていた時代でした。

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