1996年7月の病原性大腸菌7月21日、京都市内 でO-157類似症状により成人男性が死亡。22日に「O-157の疑いが強い」との情報が入り、遺伝子検査による確定前であったにもかかわらず市長の決断で公表された。22日には京都市対策本部が設置された。市長は、全部局に対して「できることはすべてやれ」「予算に糸目はつけるな」と指示した。市立病院の専門医と全保健所長の24時間対応によって市民の不安は急速に沈静化した。
トップが信念を持ち決断したこと、それによって資源の集中投下がなされ、成果をあげた経験だと考えている。O-157への対応はその後の健康危機対応のモデルとなった。SARS、鳥インフルエンザ、農薬混入餃子事件などのその後の事案では行政区保健所の機動力と衛生公害研究所の24時間不眠不休の検査活動が威力を発揮し、市長の任期中、行政区保健所体制は堅持された。
注)文中引用のパネルはすべて当日講演時に折坂氏の使用されたものであり、氏の作成による。