障害者施策は、障害者自立支援法以前は援護施策と施設福祉施策で構成されていた。
施設サービスは通所施設を中心としており、かつて保護者の方々が立ち上げた小規模事業所(共同作業所)が多数である。障害特性のため継続通所が難しい対象者が多く、また本人所得の低い方が多い。
しかし、それらの現実を無視したのが障害者自立支援法だった。
障害者福祉施策の発展過程を顧みると、1981年の国際障害者年が大きな契機となり、理念面も量的な面も飛躍的に発展した。しかし第二臨調答申以降、国の予算圧縮政策が始まる。
その後、構造改革時代の2003年、支援費制度が実施された。私が保健福祉局長に就任した際、同制度についてヒヤリングを受けた。素晴らしい制度だと思ったのを覚えている。市場主義が導入されたとはいえ、その自己選択という良い面が反映され、極めて利用しやすい制度だった。
だが実施後半年で国の予算が枯渇し、同制度は短期間で廃止。障害者自立支援法が作られ、障害者にとって非常に厳しい制度になった。
障害者自立支援法は京都市の伝統的な福祉の視点から見ると、障害のある人たちの生活を破壊しかねない欠陥を持っていた。
一つは、過重で不合理な経済的負担である。具体的には応益負担(定率負担)と、扶養義務者の所得合算を導入したこと。二つ目は、先に述べた障害特性を無視し、事業者への報酬を日割り計算にしたこと。 そして、障害の違いに対応できないサービス体系にされたことである。これは将来の介護保険制度との統合を意図した目的別・形態別の再編成だった。
このうち京都市は、主に経済的負担の緩和に向けた京都方式を実施。自己負担基準額を国のおおむね2分の1に減額し、所得階層を細分化して応能負担に近づけた。特に従来負担がなかった低所得階層・重度障害者への手当を重視した。福祉と医療サービスを複数利用した場合はそれぞれ別に請求されるが、京都市では所得階層ごとに自己負担合計額の上限を抑制する総合上限額制度を独自に導入した。これらにより、京都市はあらたに7億円の財源を投入することとなった。
独自制度創設の発端は自立支援法実施にあたっての厚労省の姿勢に対する疑問だった。当時の厚労省老健局長と主要な指定都市局長との懇談会の場で担当部長から「(財政事情から) 全体の枠は増えないので、新たに加わった精神障害者福祉の財源のために障害者施策全体を均さざるを得ない」と苦渋に満ちた発言がされたのである。その真摯な態度に勢いをそがれ、各局長からは「障害者の特性に対応したきめ細かな制度にしてほしい」と言うのが精一杯だった。それは京都市における2005年度予算に関する「市長復活折衝」の直前だった。
保健福祉局では市長復活の場で、すでに準備していた予算案を撤回し、新制度を創設したいと申し出た。
当時の2人の副市長は反対した。独自制度をつくれば国がペナルティーをかけてくるため、結局やり直しさせられる。2回苦労するだけのことだとの意見は、当時の状況を考えれば、誠にもっともなことであった。
しかし、桝本市長からは「2回苦労したいというなら、させてやれば良い」という答が伝えられたのである。これを「良いものなら採用される」と受け止めた我々は独自制度の設計に取り掛かった。
8月に素案ができた。そのとき私は職員にこう言った。「素晴らしい案だが、誰からも感謝されないと覚悟して進め」と。なぜなら、利用者にとってみれば、それでも負担は増えるのであり、市当局にすれば、財政負担が増えるのであり、国からはとんでもないとの批判がくるのである。
両副市長の警鐘を肝に銘じて慎重にペナルティー回避が進められた。当時、京都市会には「福祉に熱い自民党京都市議団」があった。意外なことに自民公明両党の紹介で障害者諸団体から保健福祉局に申し入れがされた。これによって市議会での壁はとれたと感じた。そして市長査定では「京都方式と呼ぶように」と承認された。
次の壁は府市協調のルールである。福祉分野では京都府と京都市間は、互いの予算を事前に説明するルールがあった。しかし京都方式については、知事の最終査定の日まで秘密にせざるを得なかった。
にもかかわらず京都府の山田知事はそれまでの府の予算案を白紙に戻し、市独自制度にあわせることを決断した。予算市会では、いよいよ国からのペナルティーが来るとの噂が走ったり、国の準備の遅れから金額を修正したりハプニングもあったが、表面的にはペナルティーもなく、無事に京都方式を立ち上げることができた。
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