福島第一原発 事故後の現場より 現在の課題 ②  PDF

京都大学医学研究科環境衛生学分野教授 小泉 昭夫

地域の人々との出会い

 2011年7月、福島原発事故に対する健康影響評価を目的としたキャラバンの調査中に、南相馬の金子さんのお宅と、相馬の玉野地区での調査を行うことにした。
 金子さんのお宅は、南相馬市の原町区にあり、避難地域と接していた。空間線量はご自宅の中でも高く、お孫さんの被ばくを心配して里帰りを取りやめたとおっしゃっていた。
 また、相馬市の霊山に近い玉野地区では、飛び込みでTさんにお願いしたところ、喜んで調査に協力していただくことができた。近隣の酪農農家の御主人がつい先日自殺し、家族も大変だとTさんは切り出した。この地域は酪農と林業が盛んであったが、牧草の放射能汚染で餌が手に入らず、乳牛を泣く泣く殺さざるを得なくなり、莫大な借金を抱えることになった。酪農農家の男性は子どもと奥さんを残し、牛舎の壁に悔しい思いを書いて自殺したとのことだった。また、この地域の住民の多くは放射能の汚染で、先祖伝来の杉林が、一瞬にして無一文となることを心配していた。このように11年3月14日を境に、経済的なダメージにより多くの住民の日常が大きく非日常へと変わっていた。
 11年当時は、多くの自治体が全自治体を上げて避難していた。このような自治体の中で、比較的汚染が少ない川内村では、生活再建のため、12年の帰村を目指していた。当時は郡山に村役場が避難しており、帰村準備中の12年1月に避難先の仮庁舎を訪問し、住民の被ばく調査を行いたいと趣旨を申し上げた。すると村長は、うちの村にはそのような支援の申し込みがないので、是非頑張ってほしいとご快諾いただいた。
 川内村は、人口およそ3000人の集落であり、農業のほか近隣原発近くの富岡町での3次産業に多くの村民が従事していた。川内村では幕末から明治にかけ、村有林を守る訴訟を勝ち取り、森林という共有財産で教育振興をはかってきた。川内村の木材は常磐炭鉱の坑道に利用された。環境汚染担当のIさんに、早速川内村の現地調査に連れて行っていただいた。その道すがら、川内村にはア行の苗字が多い(秋元、井出、猪狩、遠藤)ので、覚えやすいと教えてもらった。また、11年3月16日に全村民あげての避難の際、つらかったことを話して下さった。「バスに最後に乗り、出発の折に振り返ったとき涙が止まらなかった。自分の家や財産を突然失うということは、非常につらい経験だった」と涙ながらにお話しいただいた。

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