「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(日本国憲法前文)。
核の傘とは、核保有国(米国など)が同盟国(日本など)に核兵器の抑止力を提供すること、またそれを自国の安全保障とすること。
2017年7月7日、国連は「核兵器の禁止に関する条約」を採択した。被爆国でありながら、反対・不参加を表明し退席した日本の席には、「wish you were here」と書かれた折り鶴が置かれていた。
核廃絶の潮流は、その非人道性と核抑止論批判にある。前者は「過去の核兵器使用や実験の経験は、その巨大で制御不可能な破壊力や無差別性がもたらす受け入れられない人道的結果を示している」(国連総会・核兵器の人道上の結果に関する共同声明)として核廃絶論の最大多数になった。
しかし後者は、「核軍縮・廃絶は夢だと片付けられることが多いが、核兵器が安全を保証するとか、一国の地位や威信を高めるといった主張こそが幻想だ」(潘基文国連事務総長2010年)にもかかわらず、なお政治の世界で生きている。抑止力とは何か。他国の攻撃に対し、その国に圧倒的、壊滅的な報復攻撃をする軍事力を保持し、それを実行すると脅迫し、「恐怖」を与え、攻撃を思いとどまらせることであり、それは現実的には核兵器による以外にはあり得ない。では抑止力の何が問題か。相手国よりも強大な核攻撃能力を保持する必要から、際限のない軍拡競争が起こってしまう。そして何よりも偶発的な核戦争の危険と、それによる緊張状態が持続し、状況によってはそれが極限化する。さらに先制核攻撃の危険が絶えずつきまとう。また、テロリストの組織は分散し市民社会に潜むため、抑止力が働かないばかりかテロリストに核が渡ってしまう危険がある。
そもそも抑止力とは、双方が非人道的、壊滅的な破壊を与えるという「恐怖」に基づくものに他ならず、それはまさに憲法の「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を侵害し、憲法の理念に真っ向から反するものであろう。その意味でも我々の選ぶべき道は、核廃絶であり、また憲法の持つ理念と、それにもとづくすべてを堅持する努力をすることである。(政策部会・飯田 哲夫)
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