それぞれの土地で①  PDF

阿部 純(宇治久世)

雪国に耐える

 すでに古くなったが、2000年のミレニアム前後5年を、東北は山形県の豪雪地帯の新庄市で独り暮らしをした。なんでまた、と言われそうだが、わたし特有のいわば異国趣味であろう。南国生まれのせいか、男性ホルモンの少なさもあるが、もともと寒さにはめっぽう弱く、今まで訪れた外国もほとんど赤道を跨ぐような国ばかりである。ああ、それなのに、積雪量では日本で5本の指に入るといわれている“新庄市”に敢えて飛び込んでいくとは。なんという無謀な企て、若さのせいなのか? しかも単身赴任で産婦人科の独り部長の厳しさである。
 今はもうない寝台特急日本海に京都駅0番ホームから乗車した私は、かなりの歳ではあるものの気分はまだ青春そのものであった。もっと若い時山形県の鶴岡駅で降りて、朝日連峰に立ち向かって以来の懐かしい列車だ。新庄市へは今でこそ山形新幹線の終着駅ではあるが、わたしが赴任したころはまだなく、関西からは遥かに遠い地であった。東北の3月はまだ雪深く、新潟近辺から車窓に繰り広げられる景色は一面、無垢な白い世界の連続であった。座席にぽつねんと座る中高年の男性の表情も心なしか寂しげであった。
 あくる日、鶴岡で下車し、陸羽西線に乗り換え新庄駅で降車。北国の人らしく頬がほんのりと紅い丸顔の事務長補佐が迎えに来てくれる。驚いたことに、ここでは3月3日はひな祭りを寒さのせいで行えず、ひと月遅れで敢行される由、やはり日本は南北に長く別世界の感を強くした。
 これから勤務する病院に案内され、さらに医局に入っていくと、ワンレンがよく似合う医局秘書がにこやかに近づいてくる。ウグイスばりのなんともうるわしいメゾソプラノだ。小柄なことも手伝って、まだお若いと判断していたが、後に中年近くと知って驚愕してしまった。この秘書さんには6年近くの新庄物語に公私とも随分お世話になった。すでに述べたように新庄市は名にし負う豪雪地帯で、長い冬には長靴が必需品(若い女の子は嫌がっているようだったが)で、なんと秘書さんはそれぞれの医局員に合う長靴を買ってきてくれて、医局に並べてくれたものだった。私の長靴がとりわけ可愛らしい短さであったことはいうまでもない。そして、多くの医局員は実家から遠く離れ単身赴任だったせいもあり、朝、彼女が握ってくれたおむすびを食べてから仕事を始めるのだった。森々と大粒の雪が降ってゆく窓外を見やりながら、無音の世界の中で、やや緩めのおむすびをほうばる贅沢さは何物にも代えがたい経験だった。

筆者プロフィール
1976年、京都府立医大卒。同大学産婦人科入局、京都第二赤十字病院で研修(~79年3月)。79年~84年、関連病院勤務(福井愛育、社保神戸、愛生会山科)。84年~88年、京都府立医大基礎系(解剖学)大学院。88年~91年3月、多治見市民病院産婦人科(医長)。91年~97年、草津中央病院産婦人科(部長)。97年4月~98年3月、醍醐渡辺病院(体外受精研修)。99年4月~04年12月、新庄(山形県)徳洲会病院(部長)。05年1月~08年3月、名瀬徳洲会病院(部長)。08年4月~10年1月、松原徳洲会病院。10年11月~宇治市にて婦人科医院開業(あべじゅん婦人科)。

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