私の生まれは戦後なので、もちろん戦時中の記憶はありません。しかし、戦争の影が多少残る時代を記憶しています。現政権が日本を戦争できる国へと推し進める中、少しでも「戦争」関連の出来事に触れていただければと、なにげない日常風景ではありますが、綴りました。
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私が子どもの頃、三条通(当時の三条通は国道1号線に指定されていました)に面した窓から外を見るのが好きでした。見えるのはほとんどが京阪三条と浜大津とを結ぶ2両編成の京阪電車です(当時は路面電車でした)。そして稀に自動車が走ります。何日かに一度くらいは進駐軍のトラックが、集団で走ります。移動中に迷って列が乱れないように兵士が旗を持って荷台に立ち、曲がり角では旗を上げて後の車に進路を指示していました(手信号だったかもしれません)。進駐軍のトラックは渡河を考慮してか今の乗用車のように車体の下に排気するのでなく、トラックの屋根の高さに垂直に伸びており、とても珍しく面白く思ったのを覚えています。
私の家の前には京都市バスや京阪バスの停留所があり、並んで進駐軍専用のバス停もありました。今では珍しくありませんが進駐軍のワンマンバスに私は目を丸くしたものです(当時の日本のバスには運転手の他に車掌がおり、車内での乗車券の販売や手動でのドアの開閉をしていました)。
時が経ち、私が中学の頃でしたか英語の授業中に、米国人教師が「日本はいつ独立したか」という質問をしました。占領中の日本は、進駐軍が政策に関与し、植民地ではないにせよ独立国ではなかったということです。驚いたのは同学年同年齢だった(しかも後に弁護士になった)友人がそれを理解していなかったことです。彼は「日本は昔からずっと独立国です」と答えました。質問した英語教師(米軍の従軍司祭でもありました)も何かマズいと思ったらしく話はウヤムヤに終わりました。良し悪しはともかく、進駐軍の占領政策は日本人に反感を持たさないように巧妙だったし、日本も配慮していたのだろうと思います。
ところで「独立はいつか?」という問いに対する答えは、本土については1952年ですが、トカラ列島・奄美群島は53年、小笠原諸島は68年、そして沖縄の復帰はなんと72年です。そしてその間は、漁船も国籍を示す日章旗を掲げることができず、近隣他国の船舶から国旗を掲揚していない不審な船舶として銃撃を受けたとラジオで聴いたこともあります。
この頃の映画上映はメインの映画の前にニュース映画を上映することになっていたようで、母と一緒に映画を見に行った際、奄美群島などが次々と日本に返還されていく様子を見た覚えがあります。
(山科・山田一雄)