小泉 昭夫 京都大学医学研究科環境衛生学分野教授
インターン闘争と専門医
1945年日本は連合軍に全面降伏した。その後、同年の8月下旬には我が国に進駐を始めGHQを設立した。そのGHQでは、サムス准将が、我が国医学教育改革に着手した。医学教育改革では、まず当時の臨床軽視の風潮にくさびを打ち込んだ。いわゆるインターン制度の導入である。
米国医学教育の機械的な移植は、矛盾を孕むこととなった。我が国では、明治以降、大学の教授を人事権の頂点とする関連病院の人事制度と、医師間の格差を生む学位制度の二つが一体となった「医局講座制」が温存された。この「医局講座制」を維持したまま、インターン制度が導入されたため、インターン生は、関連病院での研修を行った。各医局では、教授が、インターン生を含むすべてのスタッフの人事を差配することになった。その結果、教授の権限は学問、臨床、研修におよび、「白い巨塔」を生んだ。インターン生は、国試を受ける前の1年間は、無給診療者として酷使された。そこで、インターン生は、研修・地位・経済的保障の三つをトリアスとして掲げ、医局講座制打破を訴え闘争を開始した。おりしも、国民皆保険が実現した1961年以降、患者数は増大し続け、多くの病院で医師不足が深刻化し、国試ボイコットの切り札は、予想を超えた効果を発揮。68年にインターン制度はついに廃止された。
多くの大学では、その後、臨床研修制度が新たに構築され、学生は、医局の枠にとらわれずローテート研修することが可能となり、カリキュラムによる臨床研修が行われた。この過程で、医局講座制の象徴の一つでもあり医師間の根拠のない格差の元凶である学位制度の議論がなされ、臨床力や技術力に重点を置いた「専門医」が学位に代わるものとして構想された。例えば、患者安全の視点から、内視鏡手術や腹腔鏡手術など、技術に重点を置いた専門医制度である。
現在の政府主導の専門医機構による専門医制度の思惑は、医師人口の制御による医療費削減と筆者はみる。明治以来我が国の医政は、教育制度に介入することにより医療費を抑制する伝統がある。臨床力の強化と医療安全、医師人口の偏在などを絡めつつ医療費抑制の秘策として専門医制度を進める政府の意図があるように思えてならない。即ち、「専門医」は、財政抑制と臨床力の向上の二つの同床異夢の産物である。また、専門医制度は、国民にはあらたな医療格差の元凶となる可能性もある。さらなる熟議が必要である。
(おわり)