私の父は、東山三条で開業していた産婦人科医でした。父はラジオを組み立てられる人で(実際、我が家には父が部品を集めて組み立てた電蓄が土蔵の中に残っています)、終戦の詔勅(いわゆる玉音放送)も自分で組み立てた鉱石ラジオで聴いていたそうです。そんな父でしたので、私もラジオや無線通信についてはかなり興味がありました。
今回、我が家の土蔵の大掃除をしたところ、まだ10歳にもならないときに父に買ってもらったブリキのおもちゃが出てきました。レーダーステーションというおもちゃです。私が飛行機や自動車などより、無線関係のおもちゃに興味を持ったので、父はレーダーステーションを買ってくれたのだと思います。
レーダーステーションについては、私はおもちゃの画面に映る機影が面白いとは思わなかったのですが、本体右下にある電鍵でモールス符号を打つことができるようになっていました。それでモールス符号の練習をし始めたことを覚えています。この趣味は大学時代まで続き、電信級アマチュア無線通信士・第二級アマチュア無線技士の資格を取得して無線通信の傍受を楽しんでいましたが、近年モールス符号による通信が行われなくなったことは何となく寂しいことです。
ただ、父は飛行機にも関心があったらしく、蔵書に朝日新聞社が発行した飛行機の写真集がありました。ですから、息子の私に飛行機が画面に映るレーダーステーションを買ってくれたのかもしれません。そういえば、進駐軍がまだいた頃、よく飛行機を見ていました。私の記憶では双胴の戦闘機をみてP38だと教えてくれましたし、琵琶湖周辺に進駐軍の飛行場があることなども聞きました。
発見したレーダーステーションは、大事な思い出の品ではありますが、家に置いておいてもほこりをかぶるだけなので、大事に扱ってもらえる人に託したほうがいいかと、ブリキのおもちゃの収集がご趣味の松本央先生にお譲りしました。
ブリキのおもちゃも時代の反映ですので、捨てられることなく保存されているものを見かけると「あゝ、そういうこともあったなぁ」とその時代を思い出します。
私は長い間、押入れの棚に置かれていたレーダーステーションを見つけて進駐軍がいた頃を思い出しました。そして現在のロームシアター京都(京都会館)の場所が米軍のキャンプだったこと、そこに大砲が置かれていたこと、やがて米軍が引き揚げて行って閑散とした廃墟になっていたことなど、急激な時代の変化があった頃を次々と思い出しました。
松本央先生の収集されたおもちゃ達もそれぞれに時代を語っています。見た方が時代の変化や様子を思い出し、来し方行く末に思いを致すよすがとなればいいですね。
松本先生(右)も同じおもちゃをお持ちでした
丁寧に箱にしまってあったおもちゃ