黒い財布/谷口 謙(北丹)
21年10月2日、入院している姉(94歳)を見舞いに京都に出かけた。いつもは北近畿鉄道、JRを利用していたが、今回は初めて人を頼んで車で行くことにした。
午前11時30分頃出発、宮津からバイパス利用、予想はしていたが山また山、トンネル、はるか側方に小さな集落が散らばっている。トンネルの数を数え始めたが途中でわからなくなった。
途中、和知の名前が脳裏に残った。70年以上前、口大野小学校の時、たしか小坂といったと思うが、同級生の友人で当時国鉄口大野駅官舎に住んでいた生徒がいた。彼の父は助役だったが、よく一緒に遊んだ。何年生の時だったろうか、小坂の父は和知駅の助役に転任した。ちょうど栄転なる語を知ったところだったので、ぼくは父に質問をした。小坂の父は栄転だろうか?
父はしばらく首を傾げていたが、まあ本線の駅だから口大野駅に比べたら栄転だろうな、と言った。和知中学の横を過ぎ、集落の中、鉄道線路が走っていた。
京都市に入ったのは五条通りである。今までの高速と違いすさまじい車の群れ、途端に車はのろのろ運転になった。姉のいるP病院に着いたのは午後2時過ぎだった。受付で姉の名を告げ、2階の病室に上った。姉は幕で4つに分けられた部屋の一隅にいた。顔色もよく元気そうだった。
「まあ、謙さん、わざわざ来てくれなくてもいいのに」
耳の遠い姉はそれでも微笑んで嬉しそうだった。十分くらいいただろうか。
「姉さん、お金もっとるかい?」
「うん、S子が見舞いと言って○○円くれた」
ぼくもいくばくかの金子を手渡した。と、看護師が幕の外から声をかけた。
「―さん、また便秘で困るんでしょう」
ああ、姉は宿便に困っていたんだった。ぼくは慌てず「さよなら」と言って外に出た。受付に「ありがとうございました」と挨拶をして院外へ、運転手はちゃんと待っていてくれた。
帰路、市内を過ぎて、車の運行がやや少なくなった頃、ぼくはポケットに入れていた財布がないのに気付いた。黒色布製、チャックのついた粗末な小銭入れ、不時の支出に備え万札を数枚入れていた。運転の人が車を止めて探してくれる。探すと言っても狭い車内のことだ。どこにもない。運転の人が病院に電話をしてくれる。まずぼくの名前と姉の名、財布の形。ほとんど同時に近く返答があった。受付の外、スロープにその財布はあったと。聞くなりぼくは心をこめて、その財布を姉に渡して下さいと依頼をした。帰宅してすぐ、病院事務長と姉に手紙を書いた。
10月4日日曜日、ぼくの財布は無事宅急便にて手許に返った。ぼくがP病院を去ってしばらくして、26歳で死亡した上の姉の娘が見舞いに行き、姉からぼくの財布を預かって送ってくれたのだった。一件落着、P病院の対応は全く親切の一語につきる。
財布はビニールの袋に入れ、メモがついていた。21・10・2・14・20
受付の外スロープにて、Kさんご家族より、黒色布製小銭入れ、大宮町口大野 谷口けん様、姉の名、ぼくの電話番号。