豊国神社で文化講座  PDF

豊国神社で文化講座

 協会は11月7日、第8回文化講座「豊臣秀吉が愛した女性たち〜北政所と淀殿〜」を豊国神社で開催、29人が参加した。講座に先立って、参加者は拝殿での参拝を行い、神職より豊国神社の由緒を聞いた後、宝物館を見学した。

豊国神社唐門を見学
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文化講座をうける
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参加記 秀吉とおねの時代に思い巡らす

 豊国神社は、京都の人々からは、「ほうこくさん」の名で親しまれているが、正式には「とよくにじんじゃ」であり、ご祭神は言わずと知れた、太閤さん、豊臣秀吉である。正面の大きな石鳥居をくぐり、参道を進むと、豪華な大唐門が見えてきた。正月三が日しかくぐれない大唐門を通って、拝殿にて参拝させていただいたのは、貴重な経験であった。

 参拝後、神職より由緒を伺い、宝物館の見学をした。印象に残ったのは、狩野内膳作「豊国祭礼図屏風」である。5チーム500人が、輪になっておねの前で踊っている様は、何とも明るく、にぎやかであった。竹の子の被りものをして、今で言うコスプレ姿でうろついている男もいたりして、太閤さん時代のおおらかさが偲ばれた。宝物館には、秀吉のものと伝えられる歯も残っており、鑑定の結果、秀吉の血液型はO型であったとのこと。

 その後、場所を変え、田端泰子先生(京都橘大教授)から、「秀吉が愛した女性たち」のお話を伺った。

 おねは、母の反対で、浅野家の養女となって、貧しい秀吉と結婚した。しかし、秀吉は、持ち前の才気によって、日本史上最も大出世した。天下人関白になってからは、おねの役割は拡大し、朝廷との付き合い、養子女の教育、大名家からの人質との付き合いなど、難しい仕事を上手に勤めていく。おねは、田舎出で、高貴な家の出身でもないが、何事も一から勉強し、公家や天皇家ともお付き合いして、一生懸命がんばったのだろう。当時、おねが公家や寺社にあてて書いた手紙も宝物館に残っている。秀吉は、正室のおねこそ、家の重鎮であると、おねを上手にたてている。淀殿が子どもを産んだ時も、「両人の御かかさま」体制を作った。ドラマで言われるように、2人はライバルというよりは、特に秀吉死後は、おねと淀殿が2人で、後家役割を分担したことで、豊臣家は大坂冬・夏の陣まで持ちこたえたのではないかと、田端先生はおっしゃった。

 先生のお話が大変上手で、あっという間に2時間が過ぎていた。私は、京都女子大に勤めており、毎日、俗称女坂を登って通勤している。女坂を登りきった太閤坦から更に565段の石段を登りつめた、阿弥陀ヶ峯の山頂に、豊国廟(秀吉の墓所)がある。自分で勝手に、太閤さんとのご縁を感じており、いっそう楽しく、お話を伺うことができた。(東山・水野 恵)

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