見つめ直そうWork Health(4)
専門家の力
吉中 丈志(中京西部)
慢性二硫化炭素(CS2)中毒症が業務起因性である(職業病)と認められるには以下の基準を満たす必要がある。「相当の濃度のCS2蒸気にさらされる業務に長期間従事した労働者に、CS2によると考えられる腎障害およびCS2性網膜症を認めた場合、またはCS2によると考えられる脳血管障害およびCS2性網膜症を認めた場合」(昭和51年1月30日 労働省:当時)。
ここで言うCS2の濃度は10数ppm以上である。宇治で会った3人の労働者にとってはこの作業環境に曝されたことを証明するのが第一の関門であった。第二に脳血管障害とCS2性網膜症があることの証明も必要である。
注目すべきはCS2網膜症が必須とされていることである。微小血管瘤や出血を特徴とし、これは日本で明らかにされた所見にもとづいている。糖尿病は伴わない。二硫化炭素中毒症の第一人者であった大阪大学医学部衛生学教室の後藤稠教授(当時)が現場の綿密な調査観察を行って明らかにされた成果であった。3人とも脳血管障害があることは確定していたので、どうしてもCS2性網膜症の有無を調べる必要があった。
当時の上京病院には眼科がなかった。そのため眼科に進んだ後輩のS医師に依頼して蛍光眼底などの精密検査をしてもらうことにした。事情を話すと蛍光眼底の装置を手配してくれ、検査にも手弁当で駆けつけてくれた。その結果、3人とも二硫化炭素網膜症が検出され、3人とも臨床診断の要件を満たしていることを明らかにできた。
難関は職場環境のCS2濃度が証明できないことであった。データは会社が管理しており3人の労働者には知る由もなかったのである。そこで、後藤教授がCS2濃度5〜10ppmであっても10年程度の暴露で網膜症を起こすことを明らかにされていたことに注目した。これを踏まえて著書(二硫化炭素性血管障害の研究)では、CS2網膜症自体が「二硫化炭素暴露の程度を示す指標」であると主張されていたのであった。
これらの結果を踏まえて、CS2によると考えられる脳血管障害と網膜症が3人の労働者には認められ、CS2濃度に言及することはできないけれどもCS2性網膜症の発症自体が相当濃度のCS2暴露を示すものだと主張する診断書を提出した。当局は教授の判断を仰いだようであったが、3人の慢性二硫化炭素中毒症は業務起因性であるという決定を下した。当時その教室にいた私の同級生の助言もあったと人づてに聞いたが、後藤教授は行政基準を機械的に当てはめることを退けて専門家としての判断を下されたのだと今でも思う。いったん発症すれば軽快しないのがこの中毒症の特徴であったから、CS2暴露労働者の健康管理、予防こそ重要と考えられたのだと受け止めている。
専門性の真骨頂は深みである。そこから全人性が生まれる。視野狭窄や谷間を作ってしまう部分性とは異なるものだ。山田伸彦先生と後藤教授、私が出会ったお二人には深い洞察力があり、そこから人間性が滲み出ていたように思う。その学問には情けがあったと言うべきか。協力してくれた後輩の眼科医もお二人のような専門家に成長して活躍中である。