見つめ直そうWork Health(30)
いのちの証言
吉中 丈志(中京西部)
医師になって20年が経っていた。その頃私は次のように書いた。
〈幼い記憶〉
暑い頃だった。トロッコのレールをまたいで横たわる労務者の作業着、顔には手拭いがかけられていた。沈黙の現場でその白さだけが浮き上がっていた。どこの家の父親なのだろう? 明日からどうやって暮らしていくのか? 私は乗せられていた自転車の荷台を強く後ろへ引っ張った。恐ろしくて逃げ出したい現実が目の前にあった。労働者はいつも布団の上で死ぬとは限らない。この出来事は、その後永く私の脳裏を離れることはなかった。進駐軍の記憶が薄れてきた頃の田舎の経済がそこにあった。
〈黄檗 5年目の冬〉
玄関の戸が控えめに引かれ、労務服を着た三人の男が部屋へ入ってきた。ぎこちない動作、聞き取りにくい言葉、病歴を聞くのにひどく時間がかかる。自身の不自由さにもかかわらず不釣り合いな笑顔があった。空虚な表情が部屋を満たした。みんな40代、年齢を聞いて無言で驚いた。帰り道、幼い頃に見た労務者の顔を覆っていた白い手拭いの記憶がよみがえっていた。
〈学問に情けあり〉
労災と認められる確実な根拠がいる。初めての認定で負けるわけにはいかない。はたらくもののいのちがかかる。攻め込んで初戦に勝つことが必須だった。脳循環測定、蛍光眼底検査、神経学的所見…専門家のプライドが労働者の思いと交錯した。専門家は立場を問われ、労働者は尊厳を懸ける。科学や技術がようやくはたらくものたちへ微笑みを向ける。
〈20年目の決意〉
京都地裁の大法廷は歴史的建造物だ。私は医師としての歩みのすべてをかけて証言した。真実は被災者にあり、ユニチカの医学的代弁者の手にはない。患者と家族はたたかったではないか。第一に、病気とたたかった。第二に、医療を受けるためにたたかった。第三に、病気の発生源とたたかった。藤田さんは途上で亡くなった。中村さん、福垣さんは寝たきりになった。裕谷さんも永富さんも症状が悪化した。犠牲を払った。治せない悔しさがあった。医学には、戦争に手を貸し、はたらくものを苦しめ、患者のいのちを奪ったという歴史が一方である。たたかうことによってのみ、人が寄せる想いに医学はようやくこたえることができるのだ。はたらくものの医療と健康をめざせ! 今、私は幼かった日に見たあの労務者の顔をおおった白い手拭いをとり、涙を流す勇気をもつ。
◇ ◇
2005年1月にユニチカ労働者だった父を持つ学校の先生の投稿(学校体育研究同志会大阪支部の健康教育掲示板)が目にとまった。被災者の娘さんと幼い頃友達だった。「誰かが誰かを支えるのではなく人間はお互いに支え合い連帯し合わないと生きていけないことをこの闘争に加わった人たちは感じていた…人と人との結びつきがある限り私達は私達の願う生き方ができる。いのちと健康を大切にする当たり前の生活を送れるのだと教わった」。
京都民医連中央病院と韓国グリーン病院とは姉妹提携(2007年)を結んだ。2013年には過労死等防止対策基本法が超党派で成立した。30年の経緯だ。人びとの営みが重なり広がって時は進む。私もその中にある。
(完)