見つめ直そうWork Health(29)
吉中 丈志(中京西部)
花やしきの山本宣治
2013年2月、宇治の花やしき浮舟園に二硫化炭素中毒症の被災者家族や運動を支えた人たちが集まった。16年ぶりの再会である。地元宇治に住んでいる人も多いが、中には遠くで暮らしている人もある。裕谷、中村、藤田さんの妻の顔もあった。あさくら診療所の河本一成所長、京都弁護士会の会長を務めた村山晃弁護士、宮本繁夫宇治市会議員(当時宇治市職労)の姿もある。韓国グリーン病院にある労働環境研究所のイム所長も参加してくれた。
会場の花やしき浮舟園は山本宣治の生家である。1928年の第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)に労農党から立候補し1万4411票で当選した代議士である。竹久夢二との交流は有名で妻千代の絵を描いてもらっている。1929年3月5日、治安維持法に対して衆議院で反対討論のために上京していた際に、泊まっていた旅館で右翼の黒田保久二に刺殺された。
その直後、解放運動犠牲者救援会から「労働者農民の病院をつくれ」という訴えが出された。書出しはこうだ。「現在、労働者や農民の困難はますます厳しくなってきました。工場が閉鎖されたり小作料が引き上げられて失業者が増え、労働条件は悪くなり、さらに税金は高く、生活費もかさんで、大勢の勤労国民は困り苦しんで窮乏のどん底へ追い立てられ、限界を超えた労働と貧困の苦しみの中で、その心身は破壊されるままに打ち捨てられています。
チリとホコリにうずもれた工場での限界を超えた労働を原因とする肺結核、絶え間なく発生する労働負傷、不規則な生活を強制されるための神経衰弱、不適切な栄養状態のための脚気など、近代資本主義の社会制度が大勢の勤労国民にもたらした病気は数え上げるヒマがありません」(文体を現代向けに改めてある:中根康裕 現代へのメッセージ「無産者診療所」病態生理Vol49No114)。二硫化炭素中毒症の被災者と家族が置かれた状況と変わらないことに驚かされる。
紹介した無産者病院設立趣意書の発起人に河上肇らとともに宣治の妻千代の名もある。私は、「われわれ自身の病院を持たねばならぬ」という檄は山本宣治のそれでもあったのだと思う。これが契機となって無産者診療所が誕生し民医連運動のルーツとなる。あさくら診療所の誕生は現代の「われわれの病院」であった。労働組合で支援をし続けた薮田秀雄さんは今、宇治山宣会の会長である。このような経緯を踏まえて彼は民医連の病院、診療所を「ただものではない病院」と表現する。話を聞いた私の病院の若い職員は「一番心に残った言葉」だと言う。
イム先生は現在の韓国の運動を紹介した。「韓国では労働者に椅子を!という運動が取り組まれ、客がいない時にはコンビニやスーパーの労働者が椅子に座れるようになった。清掃労働者など体が汚れる作業をする人が家に帰る前にシャワーを浴びることができるようにという運動もある。これらの労働者はたいてい非正規雇用だが、はたらくものの連帯があり成果を生んでいる」。グローバル化ははたらくものの国際連帯も生み出そうとしている。そこには山宣の思想に通底するものがあるように思う。