見つめ直そうWork Health(28)
活躍した女性
吉中 丈志(中京西部)
12年間のたたかいでは女性の活躍が印象的だった。原告のたたかいは妻とともにあった。以下「健康をかえせ」(ユニチカCS2中毒裁判闘争報告集)から紹介する。
「パートの賃金で家族4人生活していかなければならなかった。当時、子供は高校生と中学生でした。他の家庭と差がないように、父親が障害者だからこうなんだと言われないようにと、色々と気をつかってきました」。「一日も長く生きたい」。(永富絹枝)
「親、兄弟、親戚に頼んで守る会にも入会してもらいました。母が集金し父がまとめて送ってくれました。その父も母も裁判の行方を気にしながら勝利和解を知らないまま死亡しました」。「いろいろな事を言われたり圧力をかけられた事もあって裁判なんかやるんじゃなかったと思う時もあったが、他人のために一生懸命頑張ってくれる人もいるのに自分たちのことなのにと思い直しては頑張り、また困難なことに出会うとやめようかの繰り返しでした」。「お金より自由がほしい、自由になりたい」。(中村静枝)
「1985年1月24日の新聞を見た時です。ユニチカの元レーヨン部労働者労災申請、10行ほどの小さな記事でした。その頃主人は病気で、脳梗塞、脳血栓、心不全、仮性球麻痺等の病名をつけられ入退院をくり返しながら三年が経っていました。助かった、原因が分かれば治す薬もある、目の前がパーッと明るくなりました」。「この人たち(支援者 筆者注)との出会いが私を百八十度変えて、世の中本当に正しいのは何か、しっかり見ることを教えられました」。(裕谷知須子)
「私たち患者と家族は和解したことが終わりではなく、これからが苦しみ、悲しみに耐えて生きなければなりません……皆様への感謝の気持ちを糧としてなるべく明るく前向きに生きていくつもりでおります」。(福垣珠代)
「主人は私達家族に色々な思い出を沢山残して逝きました。辛かったこと、悔しかったこと、楽しかったこと、一度にはとても話しきれないほどの思い出となりました」。「(労基署交渉)のたびに私の知らない人までが応援にかけつけて下さいました。なかには仕事を休んで来てくださった方もいます。世の中にはこんなに親切な人が大勢いることに大変おどろきました。頑張る勇気が湧いきて、どれほど嬉しかったかしれません」。(藤田露子)
専門家では東昌子医師(既出)、弁護士では吉田容子(市民共同、当時)、大脇美保(同)、村松いづみ(京都法律、当時)らが活躍した。
患者と家族を支え運動の中心を担った人に清水良子氏(京都労災職業病対策連絡会議事務局長、当時)がいた。「認定までの間に精神的な重圧に潰れそうになって自殺未遂を起こしたときは、認定業務は命にかかわる、もっと迅速にという従来の私たちの要求の重大性があらためて真に迫った」と振り返る。「担当官がこれは認定されるべきだと思える真実性を示すために…言葉も儘ならない車椅子の患者を押し立て…泣いたり、奇声を発したりの患者に監督署長が視線を向けられないような、患者自身や家族の心情を思うと心苦しい場面も」あったが、それによって「認定がだめかもしれないという状況にあった時期に、監督署の方が本当に必死になってくれた」のだと言う。「救済じゃなくて、働くものの権利を、当たり前のことを主張し続けるということの大事さみたいなものをすごく痛感しています…この人たちが抱える看護の問題なども含めて支えあっていく、そういう体制をさらに強めていかないといけない」、そう述べる眼差しは優しかった。