見つめ直そうWork Health(21)吉中丈志(中京西部)
葬礼闘争へ
東レの中古機械を手に入れた興韓化繊は、1963年春に41人の研修生を東レ滋賀工場へ送り込んだ。レーヨン製造設備の操作、運転を習得するためである。彼らは滋賀工場の北寮で寝起きしながら6カ月の間研修し、同年10月に帰国している。1964年末に東レから韓国に製造設備が運ばれて、京畿道・●金の興韓化繊の工場で組み立てられ、66年末に稼働を始めている。韓国で初めてのレーヨンの生産が始まった。
元仁常さんは当時40歳、41人の研修生のひとりだ。大正13年生まれである。その頃韓国は日本の植民地支配下にあり、皇民化政策によって日本語を強制された。そのため流ちょうな日本語を話す。彼は研修生の通訳を務め、レーヨン製造の全体像を知ることができる立場にあった。しかし、東レから二硫化炭素中毒については何も聞かなかったという。1978年に54歳で脳卒中になり退職した。「もし、体が動くなら、もう一度日本へ行って東洋レーヨンに質したいことがある。なぜ、職業病について我々に黙っていたのかと…」(中村梧郎氏聞き取り)そんな思いを抱いたまま73歳で亡くなった。
金英源さん(当時38歳)も「それほど危険なものとは知らされていなかった。知っていれば自ら中毒患者になるようなバカなことはしなかった」(同聞き取り)と病院のベットで憤る。重症の二硫化炭素中毒のため寝たきりだった。
1962年4月に勤続30年表彰を受けた東レ滋賀工場の労働者T・O氏は社内誌に「当時の紡糸室内は…ガス環境も悪く、出勤後二時間ほどすると目が痛くなり〈中略〉目から出る涙をほほにたらしながら、がんばってきた」と書いている。ガス濃度が高かったことを示している。中毒症の危険性を韓国の研修生に隠した疑いが強い。
こうして興韓化繊でレーヨン製造が始まったが、1972年には世進レーヨン、1976年に源信レーヨンと社名が変わる。赤字を理由にその都度韓国政府から融資を受けていることから、 “会社ころがし”と言われていた。その間に中毒症状を呈する労働者が続出し、1981年に初めての認定者が出た。韓国の認定基準のハードルは高かったが、1989年には49人に達する。認定されないまま亡くなったケースも多かったという。労働者に防護マスクが支給されたのは1988年になってからであった。
1991年1月5日に金奉喚さんが死亡する。二硫化炭素中毒の疑いありと診断されたが、職業病認定が却下されて治療を受けることができなかったのだ。柩が墓地へ向かうまでの間に死者の思い出深い場所を訪れる「路祭」という習慣が韓国にはある。葬列が工場に行った時のことである。会社は門を閉ざしたままで弔意を示そうとしなかった。これが未亡人や同僚の労働者の怒りに火をつけた。遺体の入った柩を工場の門前に置いた“葬礼闘争”へ発展した。衆議院で寺前議員が質問した運動(連載第13回)のことである。労働者や地域の住民による門前の焼香は137日の間途切れることがなかったという。
1991年5月に入ってようやく韓国国会の調査団が入り、翌92年にはソウル大学による疫学調査が実施された。207人の中毒患者と67人の有所見者(疑いあり)が確認された。
●=さんずいに美