見つめ直そうWork Health(19)吉中 丈志(中京西部)
繊維産業と日韓国交正常化
今年の6月22日は日韓国交正常化50年にあたる。東洋レーヨンの滋賀工場(以下、東レ)にあったレーヨン製造設備が韓国へ輸出され、同国で多発した二硫化炭素中毒の原因となったことは「職業病の輸出」(本連載13回)として紹介した。実は、国交正常化をめぐる日本と韓国、そしてアメリカの動きがこの職業病輸出の背景にある。
この経緯を詳しく追跡したのはジャーナリストの中村梧郎氏である。八代興人やユニチカの被災者を取材し、同行して訪韓。隠された歴史を明らかにしてくれた人である。「[正義の告発]独占スクープ!日韓同時取材を敢行!経済協力を名目に、日本は韓国国民へ、公害を送り込んでいた」(『Views』 1994・2・23 p104 111講談社)を著した。
韓国の源進職業病管理財団理事長(労災補償を勝ち取った後に被災者に医療とケアを提供するために労働者によって作られた)である朴 賢緒氏は漢陽大学の歴史学教授(当時)であり、韓国側の動向を「韓国初の“職業病総合センター”設立までの道のり(上・下)」(民医連医療No323・3241999年)に著した。
以下、両者を参考にして職業病輸出の背景を述べることにするが、その前に当時の繊維産業の状況を概観しておこう。
日本の繊維産業は綿と化学繊維(レーヨン)を中心に1950年代に全盛期を迎えていた。特に1950年からの3年間、朝鮮戦争特需によって紡績設備を倍加し莫大な利益を上げた。しかし、戦争後は一転して生産過剰による深刻な不況に陥った。このため、政策的な生産調整(繊維工業設備臨時措置法1956年)が行われるようになる。ちょうど合成繊維(ナイロンとポリエステル)に重点が移されつつあった時期にあたる。東レは化繊から合繊への転換をいち早く始め合繊寡占化の盟主的な位置にあった。レーヨン製造設備の撤去方針を決めたのは1961年の8月のことである。
東レ滋賀工場には古いレーヨン製造設備が残っており、第一工場、第二工場の設備は廃棄した。しかし、第三工場のスラリー式設備(普通レーヨン糸日産11・9トン)はまだ使えるとして韓国に売却した。契約額は破格の36億円。東レにとっては濡れ手に粟であった。老朽化したレーヨン製造設備を購入した韓国の企業は興韓化繊(1959年設立)である。この会社が1976年に改称されて源進レーヨンとなる。
「東レ、韓国向け人絹プラント交渉進む。第三国保証など検討(中略)日韓の国交が正常化すれば交渉が妥結するとみられているが、まとまれば日韓経済交流のトップを切るばかりでなく、東レが人絹生産を全面的に打ち切ることになり、合理化が進むと期待される。(中略)すでに売却額は30億円程度で意見一致しているものの、韓国側が延べ払い(9〜10年)を要求しているため解決していない。(中略)同プラントが政府間の“賠償輸出”の品目に選ばれる可能性もあるが、東レでは正常化すれば民間ベースでも話がしやすくなるとしている」と日経新聞(1962年12月26日)は報じた。