見つめ直そうWork Health(17)
吉中 丈志(中京西部)
労働者の物語
3人の被災者が裁判に訴えてから5年目にあたる1992年にFさんは労災認定された。続いて同僚のFGさんも労災認定された。2人は第二次訴訟の原告となる。さらに93年にはNさん、94年にはHさんも相次いで認定される。この頃までには会社側からも労災申請が出されて二硫化炭素中毒と認定されるようになっていた。
同じ職場で産業中毒の発生が相次ぐことは、ユニチカ宇治工場の労働環境に問題がある証左である。熊本の興人八代工場では40人を超える中毒症が出ていたため、ユニチカ宇治工場でももっと多くの被災労働者がいるのではないかと、だれもが考えた。
潜在化している被災者を表に出さないといけない。現役の労働者だけでなく、病気によって退職を余儀なくされた人もいるはずだ。二硫化炭素中毒を広く知らせていく必要があった。会社は労働者が声をあげないよう圧力を加えていたし、労働組合はそれに協力する有様だったため、独自の活動しかなかった。紹介したシンポジウムは潜在している被害者を顕在化させるという目的ももっていた。
そんな努力もあって多くの声が寄せられるようになった。鹿児島から届いた元ユニチカ労働者の妻からの手紙を紹介する。「主人も確かにレーヨンの二硫化炭素中毒だったと思います。昭和47年10月に発症し、レーヨンの医者でわからず、国立病院や府立病院をさまよって歩き回りましたが、どこの病院でも脳動脈硬化症という診断でした。そのうち電車に乗ることもできなくなり、とうとうユニチカ中央病院に2年入院して、それでも手は震える、歩くこともできず、悪くなるばかりで、頭がひどく痛み、食べたものを戻すの繰り返しでした」。あと5年くらいしか生きられないからできるだけ環境の良いところにと病院から言われたので、彼女は理容業をやめて自分の郷里である鹿児島に夫をつれて帰り看護に専念した。夫を看取ったのが92年、18年年余りが経っていた。「もっと早く、この会(支援の会)ができていることを知りたかったです。〈中略〉主人も長い間寝たきりで、私も心身ともに疲れました。私の親戚の人たちも感心して下さいました。長い間、寝かしたり、起こしたりでした。主人は内臓はどこも悪くなかったのです。まじめに働いて、やっと57歳で定年になり、やれやれといういとまもなく、みじめな病気にかかって、本当に主人が気の毒で仕方がありません。何のいい事もなしで、申し訳なく思っているところでございます。今は主人の仏に毎日手を合わせています。どうか皆様も頑張ってください。ありがとうございました。一人ぼっちで暮らしております」。(原文 ママ)
このような悲しい物語が数多く語られた。それが強い印象として私には残っている。多くの人たちの協力がNarrative based medicineを生み出し、Evidence based medicine(たとえば病理所見)はそれに貢献できたのだと思う。94年には京都の歌声祭典(宇治文化センター)で、音楽家や演劇家が協力して音楽構成劇が上演された。当たり前のことだが、Narrativeは診察室や病院の空間を超えている、いや、Narrativeの中に医療はあるという自覚がいるのだろう。