見つめ直そうWork Health(7)  PDF

見つめ直そうWork Health(7)

病人と患者の谷間

吉中 丈志(中京西部)
 病人が患者になれないということばがある。病気になっても医療費が払えなかったり国保証がなかったりして医療機関を受診できないことを表現している。
 小泉内閣が登場した今世紀初頭、格差と貧困が医療に及ぼした影響を象徴するものとして記憶にとどめられるかもしれない。
 30年前に私が宇治で出会った慢性二硫化炭素中毒症の労働者たちも、まさに病人が患者になれない状況そのものであった。
 身体に現れた病気という自然現象として二硫化炭素中毒症は存在していた。
 これが現実の医療の対象になることが患者になるということなのだが、それには幾多の困難があったということをこれまで述べてきた。
 米国医療の質委員会が2000年に出した「医療の質 谷間を超えて21世紀システムへ—」(Crossing the Quality Chasm)という提言が思い起こされる。安全、有効、患者中心、適時性、効率、公正の条件を満たす質の高い医療を実現するために、システム再構築を行って患者が医療の谷間に陥らないようにしようという提案であった。病人が患者になれないということは医療の谷間そのものだ。
 具体的には四つの谷間があったように思う。
 早期発見できなかったこと、これが第一の谷間である。罹患した労働者の特徴は、しびれなどの症状が現れはじめても当初は病気と自覚できずに働き続けた人が多いことである。二硫化炭素は有機溶剤であるから企業には特殊健康診断が義務付けられている。急性、慢性を問わず二硫化炭素中毒を想定してのことだ。しかし、この特殊健康診断ですくい上げられた労働者は皆無であったというのが現実だ。労働安全衛生法では安全衛生委員会の設置を定めており委員には労働者の代表も参加することになっているのだが、労働者側(労働組合)のチェック機能もはたらいていない。
 第二の谷間は診断の谷間である。これまで述べてきたように、慢性二硫化炭素中毒症という診断にたどり着くのに10年余の時間を要した場合もあったのである。
 第三は労災保険の谷間である。診断がついただけではまだ病人である。患者になるためには業務起因性の疾患(労災)であるという行政判断が必要になる。現実には、ここにも多くの困難がある。労災保険活用についての周知は不十分だし、労働者からすれば会社にたてつくという心理的な壁もある。認定の基準自体もハードルが高い。
 第四に治療の谷間がある。病状は緩徐に進行し、有効な治療法がない。今でいえば介護保険が適用される心身の状態にあったが、当時はケアの提供体制そのものが事実上ないような有様だった。
 この病気の原因は二硫化炭素ガスであり、完全に社会的なものである。感染症やがんなどとそこが異なる。言い換えれば、完全に防止できる病気だということだ。患者が落ち込む谷間は多かったが、患者に手を差し伸べて支えた人たちがたくさんいた理由の一端はおそらくここにある。患者と彼らを支えて谷間に橋をかけた人たちこそが、医療の質を向上させた主人公であったように思う。私はその一員としてその歴史に医師としての人生を重ねたにすぎない。

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