西京あれこれ 桂離宮・桂川・医史…

西京あれこれ 桂離宮・桂川・医史…

塚本忠司氏(進行)

 塚本 京都の各地域を紹介する企画の2回目ということで、西京を取り上げることになりました。今回は地元の昔のことをよくご存じの、創業120年になる和菓子店・中村軒の中村喜芳さんにもお話を伺いながら進めていきたいと思います。

中村喜芳氏 株式会社中村軒代表取締役

 中村 桂には離宮があり、桂川が流れて、昔からよく月の名所と言われて情緒豊かなところです。生活するにはとても良いところだと思っています。

 中村軒は離宮の南にあって、ここらが昔の葛野郡桂村字下桂小字下ノ町です。離宮の少し西側にある御霊神社は、この辺りの氏神で、上ノ町にあたります。御霊さんの西側の今の農協の向い辺りに桂村役場がありました。

 役場の近くには昔、農学校があって、この近辺だけでなく、京都以外からも目指してきたらしいです。昔のことなので、農学校に進学できるのは裕福な家庭で、今は土地々々の重要な地位に皆さんついておられます。

 中村軒の隣に、昔は「万甚(まんじん)」という料理屋があって、宮澤賢治が修学旅行で京都に来た時にご飯をよばれたという記録があるそうです。

中村軒

中村軒

 桂川大橋の西詰め、桂離宮のすぐ南側、旧山陰街道沿いにある創業120年の歴史ある和菓子店。丹波、丹後方面への山陰街道往来客たちの間で「かつら饅頭」として評判になり、土産品としても人気が出た。 当時、田畑ばかりの桂で麦代餅を農作業現場まで届けていたという。

 ホームページ上には、女将マサコさんによるメルマガ「京のおかし歳時記」 があり、お菓子にまつわるお話から、伝統や習慣、祭りなどを紹介していて興味深い。(http://www.nakamuraken.co.jp/

山陰街道

 京都から丹波を経て山陰地方へ向かう街道。京の七口の一つ、丹波口を起点に、樫原を経由し老ノ坂を越えて丹波国に入り、亀岡、園部、福知山、夜久野を経て但馬国へつながる。国道9号がほぼこれに沿う。

 大枝山を越えて、足利尊氏や明智光秀が攻め入った“反逆の道”でもある。

 樫原地区の街道沿いには江戸期から明治期の町家の特徴を残す民家が多く残る。宿場の中心にあたる「樫原本陣」は京都市内に唯一残る本陣遺構(現在は個人宅)として京都市の有形文化財に指定。

桂大橋西詰の灯篭
桂大橋西詰の灯篭

樫原本陣
樫原本陣

桂離宮のこと

 中村 桂離宮は、元々は八条宮家(桂宮家)の別荘として造営されたもので、宮家が絶えて桂離宮になったのは、中村軒の創業と同じ明治16(1883)年です。

 昔は拝観には、判任官(明治憲法下の下級官吏の等級)以上、もしくは資本金20万円以上の会社の重役という資格が必要だったそうで、案内の方がゆっくりと説明していました。現在は、宮内庁京都事務所に事前に申し込むと参観できるようになっています。一度に多くの人数が拝観するので、ゆっくりと説明するというようにはいかないようです。庭石をはみ出して、苔が踏まれてしまうと、庭師の人がこぼしていました。

 昭和20年代頃には、水仙の釘隠しが盗られたということで問題になりましたが、今の職人ではとてもあれだけのものはできないだろうと言われています。

 私が初めて参観したのは、つい20年ほど前です。昭和の大修理(昭和57年)をした時に、ご近所が招待してもらいました。なるほど立派なものでした。

中路 裕氏

 中路 地元はあまり行かないですからね。周りで遊んだ思い出はありますが、入ったことがありません。

武田信英氏

 武田 私も写真で見ただけです。祖母からは、中で勤労奉仕したことがあるという話を聞きました。

 中村 周辺で野球をして、ボールをとりに入ったら、えらく怒られました。

 昔は、離宮の中で何かことがあると、桂の警防団が出動していました。中が空洞になった木に雷が落ちたことがあって、「皆がよう上がらなんだけど、わしが筒先持って行って火を消したんや」というのが、父の自慢でした。

 中路 隣の桂川河原で休みにバーべキューをしていますけれど、狭い道を超えたら木があるので危ないですね。禁止と書いてある前でやっていますから。

 中村 何か事故でもないかぎりなくならないのでしょうかね。

 武田 ロケット花火で、子どもが竹垣燃やしたということもありましたね。

 塚本 竹垣が燃えるんですか。「桂垣」というのは、生き竹を倒して作ってあるのですよね。

 中村 そうです。戦中は京都16師団の兵隊がよくこのあたりに演習に来ていました。休憩させている馬が垣の笹を食べることがあって、離宮の職員さんが怒って師団司令部へ電話すると、すぐ偉いさんが飛んできた、と言います。離宮というとそれだけ力があったのです。

 力があったというと、昔、若い衆が街へ遊びに行くのに、晩は渡し船がないですから、離宮で提灯を借りて、水小屋の水番に「離宮さんのお使いで街に行くのや」と言ったら、船を出さないとしょうがない。それで島原の遊郭行ったという話もあります。

奥沢康正氏

 奥沢 ところで桂離宮には、あまり古木もなく、かつては桂川の河川敷なのであまり肥えていない土質だと思っていたのですけど、生えているキノコを調べたところ、どうもそうではないようです。宮内庁の許可がないので、発表はしていませんが、土質は肥沃で、平地には発生しないアカヤマドリなど変ったキノコが生えているのです。今でも参観者入口の松の木あたりには、松茸山によく見られるキノコが数種類生えています。おそらく、他所から土をだいぶ持ってきたのではないかと思っています。

桂大橋のこと

 武田 桂大橋ができたのは、いつですか。

 中村 桂大橋は、明治22(1889)年に架けられ、明治38(1905)年、昭和3(28)年、昭和56(81)年に架けかえられて、現在は4代目になります。その前は渡し船でした。

 橋の西詰めにある灯篭の石組みには、もともと「明治二十二年十月」と書いてあったのですが、橋を移した時に石の埋め合わせの都合で「二」がどこかにいってしまい、「明治二十」になっているのです。府庁に知らせようかと思っていましたけど、他用で府庁に行った時に見た書類に正しく書いていましたので、わざわざ言わないことにしました。

 橋の土台の灯篭は、おそらく後からもってきたのでしょう。灯篭には「弘化3年」(1846年)と書いてあります。その四面には、菊の御紋がありました。

 武田 16弁ですか。

 中村 そうです。ですから戦中、これはもったいないというので、石屋さんが削らされていました。「これは菊の御紋でな、16の菊やさけな、削れていわはるし削ってんにゃあ」とね。

 橋の灯篭には昔は毎晩、火を灯したらしいです。貴族院議員だった風間八左衛門さんが、よくステッキ振り回しながら見て回っていました。火がついてなかったら「今日の当番、誰や言うてよう怒られたもんや」と、父から聞きました。

 中路 「八左衛門」という名前は今でも代々継がれていて、先代の八左衛門さんは亡くなりましたが、今代のツムラ顧問の八左衛門さんは、勲章をもらわれましたね。

 中村 離宮は特別というか、戦後のものがなかった時代に、空いていた前庭で芋をつくりたいと、農協の人が御所にお願いに行ったところ、「そんなとこ芋つくるとこちゃう」と断られたらしいです。

 話は変わりますが、戦後、長福寺というお寺で、賀陽宮(かやのみや)さんの法事に、麦代餅(むぎてもち)を持って行ったところ、宮さんに「こら、うまい。皆にもやってや」と言われて、電話で追加を持ってくるように言ったら、私の兄が一方通行を逆行して交番で止められて、「宮さんがお急ぎなんで帰りに寄りますから」と言って届けに来たんです。宮さんから名刺をいただいていたので、巡査にそれを見せて「それやったらしゃあないわ。これからは気つけてや」で終いでした。「交通違反堪忍してくれる名刺やで」と、今でもその名刺を残しています。戦後になっても、やはり旧宮家だと、つくづくそう思いました。

桂離宮

 江戸時代初期に八条宮家(桂宮家)の別荘として造営されたもので、書院、茶屋、回遊式庭園から成る。昭和初めにドイツの建築家ブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と絶賛したことでも知られる。参観は、事前申し込みが必要で無料、18歳以上で1回4人まで。申し込みは宮内庁京都事務所の窓口か、往復ハガキ、インターネットでも可能。

 編集部は、まずネットでの参観申込を試みたが、すでに3カ月先まで満員。窓口に連絡するとキャンセル分があるとのことで、京都御苑内の同事務所で身分証明を提示して申し込みを行う。「参観許可証」が発行され、予約日時に現地でその証とともに再度、身分証で確認される。参観は約60分の行程。1日6回、一度に20〜30人をガイドが案内する。最後尾には、いかつい皇宮警察がつききりで“監視”。撮影等は自由だが、列から大きく外れたり、庭石以外を踏むと注意されるとのこと。ちなみに景色に見とれて池にはまった人も少なからずいるとか。

 離宮内は、外部と隔絶された静謐な空間が広がる。見る場所により一つとして同じ景のないこだわりのつくり、その場に身を置かねば決して味わうことのできない趣。もっと自由に見たいとの思いもわくが、我々一団以外は動くものが視界に入ってこない、これも贅沢な仕掛けの一つであろう。手間と人手をかけて、大切に残していこうという意思がそこかしこに感じられる。見る側も予約の一手間をかけるだけの価値あり。

松琴亭から書院を臨む
松琴亭から書院を臨む

離宮を取り巻く竹垣
離宮を取り巻く竹垣

氾濫繰り返した桂川

 塚本 離宮の垣は、桂川の氾濫時に土砂やゴミが流れ込まないようにするフィルターの役目があったと聞いています。書院が高床式になっているのは、月見のためとも氾濫を前提にした工夫とも言われているそうです。

 中路 その氾濫のことが聞きたいのですが、いつ頃まであったんですか。

 中村 父の話によると、昔は今みたいに堤防がしっかりしていなかったので、水の流れるところが川でした。常に氾濫して、あっち行きこっち行きしていたそうです。中村軒の裏の田圃は、元の河原に土を入れたものなので小石ばかりで、在所の人は河原田と言います。土が浅いので、米の取れ高が2割くらいは低いようです。

 よく映画でもそういうシーンがありましたが、堤防ができてからも、増水したら両側の在所同士で睨み合いがあったそうです。どちらかが決壊したら向かい側は助かるので、堤を切りに行くというのです。その人は罪になって刑務所に入るけれど、在所中あげてその家族の守をしたというのです。

 私の知っている限りで一番の被害は、昭和26(1951)年、亀岡の平和池が決壊した時に、それはすごい水が出て、材木や牛や、家まで流れてきました。相当の方が亡くなられて、平和池の方からも探しにきていました。

 中路 その山津波で嵐峡館が押しつぶされて、私の曽祖父母がその時に亡くなっているのです。私が1歳の時ですので26年です。

 武田 亀岡駅にその時の最大水位が、二階程の高さに刻まれています。信じ難い洪水です。

 中村 いい材木が流れてきますので、私ら数人で飛び込んで7、8本引き上げました。食うものもない時代ですので、売って分けるつもりでしたが、翌日に行ったら、せっかく苦労してあげたのに京都府の判子が押してありました。

 また、昭和35(1960)年には台風16号による増水で阪急電車の桂川鉄橋が傾きました。1、2カ月ほど不通になり、その間バスによる代替輸送で、通勤通学で利用していた方々は大変不便な思いをしておられました。事故が夜中であったため、人や車輌に被害はありませんでしたが、もし走行中だったらと考えると恐ろしいですね。

 室戸台風(昭和9年)の時には、西芳寺川が決壊しました。桂小学校の前が低くなっているので、子どもの股下まで水がきました。その時は、先生が迎えにきてくれて、杭打ちして張ったロープを伝って、学校まで一人づつ連れて入れてくれました。今でしたら休校になりますけれど、そんな時でもちゃんと学校に行って、昔の子の方が強かったと思います。

 武田 私の校区でも、例えば上野の子は、桂小学校まで往復4kmを通っていました。6年間では5千から6千kmにもなる計算です。

 中路 昔、小学校は川岡、桂、松尾の3つだけでしたから。

 中村 その頃は、7連合での学区対抗の運動会が毎年開かれていました。太秦・梅津・嵯峨・西京極・桂・川岡・松尾。人が多いから、勝つのはいつも太秦でした。

 ところで、私のところは近畿地方建設局(昔の大阪土木出張所、現在の近畿地方整備局)からの依頼で、昭和6年から桂川の水量を測っています。今から20、30年前、増水した時に、床止(とこどめ)注)が飛んでしまったことがあります。

 観測は1日2回ですが、ちょっと増水したら3時間観測、さらに増えたら1時間、30分へと間隔を狭めて報告するのです。30分間隔ともなると、観測して帰ってきて、京都府と地建、ついでに離宮にも電話したら、もう次の観測に行かないといけません。昔はなかなか電話がつながらない時がありました。そんな時でも地建が話を通してくれて、緊急水防通報と交換手に言うとすぐ繋いでくれました。

 堤防の床止めが飛んだときには、30分前に水に浸かって見えてなかったのが見えていて、水も引いているように見えました。観測所の中でグラフを見ると大きく動いていたんです。すぐに地建に電話すると、「どっかが切れたんや」と大騒動になって、車を総動員してサイレン鳴らして探しまわりました。けれど、どこも決壊した所がなく、結局、ここの床止が飛んだことが原因だったのです。

 それと、堤防の上を舗装してなかった頃は、増水して切れる寸前になると、父がいつもついてる杖がゴボッと中に入ってしまうと言っていました。普段はカンカンで入るものではないけれど、それだけ水が浸んでるんですな。

 降雨等で河川が増水した場合、色々な物が流れてきますが、共に「ゴモク」が流れている場合は増水中。ゴモクの流れが止まれば増水のピークは過ぎたと解釈して間違いないです。なぜなら増水に従い堤防の「ノリ面」のゴミが共に流れるからです。

 注)河床の洗掘を防いで河川の勾配(上流から下流に向かっての川底の勾配)を安定させるために、河川を横断して設けられる施設。

葛野郡から西京区への変遷

西京区の概略図

恵みも豊かな桂川

 奥沢 ところで、この辺りに川船はなかったのでしょうか。

 武田 屋形舟は久世にも松尾にもあったようです。

 中村 「万甚」も5、6杯もっていました。その向かい側にもありました。

 奥沢 それともう1点。台風の後に、ドントのところでタモですくうと、大きなカワガニがとれました。カワガニはいましたか。

 中村 サワガニならたくさんいますけれど、大水で流れてきたのだと思います。

 奥沢 私は鴨川のすぐ近く河原町正面で育ち、魚採りに夢中でしたが、小学5、6年生の頃には、魚採りに桂川まで歩いて来ていました。鴨川は西陣織の洗いでものすごく汚れてしまったのに比べ、桂川は水量と深さがあるので水がきれいでした。タモですくうと魚がグワッと採れました。

 台風で水が河川敷近くまでくると、魚が濁流に流されないために土手の横まで来るものですから、寝そべって足を友人に持ってもらってはタモですくっていました。足を離され濁流に落ちたら終わりですよ。

 塚本 子どもの頃は、大雨で水が出た後、錦鯉とかよく流れてきましたね。

 中路 台風の後にウナギがとれたり…。

 中村 それと桂川でも、友禅洗いがありました。

 中路 籤みたいなのを張ってほしてありましたね。

 中村 流れてしまうと、安物の友禅ならほったらかしですが、高価な生地ならすぐ探しにいっていました。

 武田 水が綺麗だったですからね。でも上野橋のすぐ上流寄りは、加工製紙のヘドロが流れ込んでいましたから、上野橋の下辺りでは1m以上のヘドロが堆積しており、すごく汚かったですよ。

 中村 昔は、ここらも上野橋も綺麗でした。床止めができてから、淀んでしまいました。子どもの頃は、桂川で遊泳中、岸辺の砂地を少し掘ると、ポコポコと湧水しているところがたくさんありました。

資料にみる明治の医療事情

 中路 ところで中村さん、お幾つになられました?

 中村 大正15(1926)年生まれの84歳です。

 中路 私の父と同じです。

 武田 私の診療所では、明治生まれの患者さんが、ついにいなくなりました。

 塚本 私のところはまだ3人いて、一番上が100歳です。

 中村 私ら大正生まれでもそうですが、明治生まれはもっと貴重品ですわ。

 奥沢 西京では100歳以上の方は40人いらっしゃるそうです。(09年10月)

 武田 私たちが開業した当時は、100歳以上が全国で数十人レベルでしたが、今は4万人以上ですからね。

 塚本 時代も医療も変わってしまいましたから。武田先生のお持ちいただいた資料を見ると、昔の死因では、どうも経済的理由で食べられなくなってというのも見られますね。

 奥沢 武田先生の資料を拝見しましたけれど、3冊とも非常に貴重なものです。一つは明治24(1891)年6月から27(94)年3月までの死亡診断書の報告事項が書いてあります。管轄の地区で亡くなった人の診断名が全部記されていて、小さな子どもは栄養失調で亡くなっているというのが多いですね。栄養失調は「生活衰弱」「生活薄弱」と書かれています。呼吸器系の病気では急性気管支炎とか肺水腫とか、その当時の診断名が書かれています。胃がんとかは珍しいですね。伝染性の赤痢も書かれています。乳児死亡数も書かれています。

 もう一つの「配剤録」は明治3(1870)年1月から10月末までのもので、外来の受診患者の名前だけが書かれてあります。書き始めは12月28日で、29・30日と1月1日だけ休んで、あとは休みなしで1日20〜23人くらいを診ておられる。投薬は、回虫の薬とか、胃腸系と肺疾患系とか全部漢方です。何にも載ってないのは何が出されたかわかりませんけれども、明治3年というと、本当の維新の頃ですね。

 武田 西洋薬がまだ入ってきていない時代ですね。

 奥沢 もう一つは、京都府医師会の大正6(1917)年の支部会員名簿です。当時は京都府医師会と京都市医師会があって、京都市医師会は上京と下京の二つに分かれていて、あとは京都府医師会に入っていました。これはその葛野郡支部の会員名簿で、人数が書いてあります。

 それと、西京の方へ京都市内から医師が出張してきているんです。おそらく2カ所管理のようなかたちで、6時から9時という時間に来て診察をしています。人口はそんなにあったのでしょうか。50人の医師会員がいて、出張会員が4人来て診察しています。

 武田 葛野郡というと、今の右京区から衣笠辺りまで含んでいるので広いです。

 奥沢 「京都市医師会50年史」には市の医師会のことは書いてあるけれども、郡部の情報が欠落しているんです。これは医師会にとっては貴重な史料です。

 中路 武田先生、趣味のウオーキングを少し休んで、掘り起こして、まとめて下さい。

 武田 時間があればですね。それと、達筆すぎて読めないのです。

 奥沢 こんなに綺麗に書いてある診断書を、私は初めて見ました。

 塚本 昔の人は墨できっちりと書いていらっしゃる。

 奥沢 こういう文書は出てくると本当に貴重で、なかなか出ないんですよ。特に江戸期のものが出てきたら、更に貴重です。逆にその頃だと、名前と年齢くらいで診断名が書いてないのではないでしょうか。その村の死亡平均年齢などを調べるにはもってこいです。

 塚本 武田先生には、ぜひ研究して出版していただけたらと思います。

 奥沢 ところで、武田先生は何代目になるのですか。

 武田 私で20代目ということですけれど、医者としては6代前が嵯峨御所の御典医をやっていたという話は聞いています。

 奥沢 おそらくその前は庄屋だったのではないでしょうか。武田先生の御尊父は庭がお好きでした。西京医師会で庭の素晴らしい医院といえば、武田医院ともう1軒ありました。あの庭石はどこから持ってきたのですか。

 武田 庭はスペイン風邪の流行の後に作ったという話ですので、大正の末くらいに造られたものです。石は摂津峡から牛に引かせて持ってきたということです。まだ大岩を運搬できる大型トラック等はなかったのでしょうか。村を通るたび通行料金をとられたときいています。

西京医師会のこと

京都府医師会葛野郡支部会員名簿(大正6年)
京都府医師会葛野郡支部会員名簿(大正6年)

 奥沢 地区の10周年記念誌など会報をいくつか参考に持ってきました。創刊号から40号までは「西山医師会報」といって、41号(昭和51年11月)から「西京医師会報」になるんですね。

 この中で、初代会長の大藪順一先生が「西山への道」という、この地域のことを書かれた連載も興味深いものでした。

 中路 昭和45(1970)年9月に右京医師会から分立して西山医師会ができて、昭和51(1976)年に西京区ができてから西京医師会になるわけです。今の会員数は病院勤務医も含めて約330人になりますが、当時の会員数が75人で、お名前を見ていたら二世が多いことがわかります。

 奥沢 今の西京で一番古くから続いているのは武田医院ですが、その前に桂の里に住した江戸期の小石元俊(1743〜1809年)ですね。杉田玄白が活躍した頃の京都で腑分けをした、いわゆる近代医学の先達になる医師です。先代の小石先生が亡くなられる前に、いろいろ話を伺ったのですが、古書によると「桂の里」と書いてあるだけで、元俊がどのあたりに居住されたかは、わからなかったと言われていました。小石家は元々桂の里が出身地で、大阪に出て開業し、名医として大いに流行って多くの門弟を持たれたが、余りにも多忙で隠居しようと桂の里に住まれたそうですが、多くの患者が再び診察を乞うて来院したため京都市内に転居されたそうです。

 当時、村医といえば、武田先生のところと、もう一人か二人おられたとは思いますが、今は絶えてしまっているんじゃないですかね。

 塚本 その頃はぽつぽつと集落があったくらいですよ。

 武田 私の小学生の頃でも、桂、上桂、下桂、上野、徳大寺、松室、樫原などの集落は、田圃・畑の海に浮かぶ小島のような状態でした。この辺りが一番大きく変わったのは昭和50年代ですかね。私が地方の大学から帰ってきたときには、風景が一変していました。

 中路 洛西ニュータウンができたときくらいですか。

 武田 あの辺りは柿畑と竹藪しかなかったですからね。自転車で大枝、大原野あたりまで行けば、幼心には外国旅行気分でした。

 奥沢 阪急桂駅の近辺でも、昭和20年代の駅前の写真を見ると、月見丘の住宅だけで、川島辺りも何もなかったです。

 中村 私の子どもの頃は、桂小学校辺りで「コダマ」を聞くことができました。当時(昭和12年頃)は桂辺りから西山方面へは大きな建物もなく、周囲も静かであったため、道路から西山の方へ向かって手を叩くとポンポンと、オーイと叫ぶとオーイと返ってくるので、喜んだものです。

 塚本 それはすごいですね。話はつきませんが、時間がきてしまいましたので、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

「死亡報告控」
武田医院に伝わる「死亡報告控」(上)と「配剤録」(下)
「配剤録」

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