続・記者の視点(32)
読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平
胃ろうは悪いことか
食べることは動物の本質である。栄養を取らないと動物は生きてゆけない。
だからといって、口から食べられなくなれば、もう死んだほうがよい、と考えるのは短絡的だろう。
人間は、眼鏡や補聴器を使うし、歯がなければ入れ歯を用いる。義肢をつけている人もいれば、人工肛門の人もいる。人工呼吸器で命をつなぐ神経難病の患者もいる。
身体の機能や形の強化・美化はともかく、不備をカバーする道具や処置に、倫理的な問題は少ない。
ところが、胃ろうには否定的な人が増えた。おなかに穴を開けることへの抵抗感に加え、“終末期の延命措置”という印象が強いようだ。
市場調査会社によるメーカーの出荷数の集計や、関西の医療機関を対象にした汐見幹夫・近畿大教授の調査によると、胃ろうの造設件数は昨年、それまでの増加ペースから一転して急減した。
背景として大きいのは、日本老年医学会の動きだ。昨年1月にまとめた高齢者の終末期医療とケアに関する「立場表明」の中で、「治療が尊厳を損なったり苦痛を増大させたりする可能性があるときは、治療の差し控えや撤退も選択肢」とした。同年6月には人工的水分・栄養補給の導入を中心とする意思決定のガイドラインを定めた。
それと前後して終末期医療をめぐるメディアの報道が増え、その多くが胃ろうを“延命措置”の代表格として扱った。「自然死」「平穏死」を呼びかける出版も相次いだ。
それらが相まって「胃ろうは何となく良くないことらしい」というマイナスイメージが広がったようだ。
大きな問題は、終末期や認知症の進行に伴う摂食困難だけでなく、脳卒中の後などで胃ろうが適する状態、回復の可能性がある状態でも、本人や家族が拒否反応を示すケースが頻発していることだ。
しかも、栄養補給を何もしないわけではなく、たいていは鼻腔チューブ、末梢静脈、中心静脈からの栄養補給が行われている。
経鼻栄養は本人の不快感が大きく、チューブを抜かないよう手にミトンをはめられることが多い。末梢静脈栄養も血管の痛みを伴い、自己抜去を防ぐために拘束されがちだ。中心静脈栄養は感染リスクがある。わざわざ苦痛やリスクの大きい手段、栄養補給に限度のある手段を選ぶのは、おかしな話だ。
胃ろうにしたら口から食べられない、いったん造ったら外せない、といった誤解も多い。実際には、のどに問題がなければ口からの食事を併用できるし、摂食・嚥下のリハビリをやれば、食べる力が回復することも少なくない。
基本的に、胃ろうは活用してよい優れた技術である。
一方、回復が期待できず、意思疎通できない状態の場合に、栄養補給して命を永らえるのはどうか。それはそれで一つの考え方だろう。
ただ、その議論の中に、心身の状態によって人間の存在価値に差をつける思想や、医療費削減の意図が潜んでいないか、気になる。