続・記者の視点(3)
読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平
2つの巨大災害
とんでもない規模の災害が起きてしまった。大津波のすさまじさは、改めて書くまでもない。あまりにも多くの人命が失われ、生活基盤である土地が丸ごと押し流された。伝えられる記事や映像に毎日、目がうるむ。そして、もはやそれだけで巨大災害となってしまった福島原発の事故には、強い憤りを覚える。
2つの巨大災害が日本の社会の方向性に大きな変化をもたらし、時代の節目になることは間違いないが、まずは現時点での印象をざっくりとまとめたい。
端的に言うと、自然災害への対応はよくやれている一方、原子力災害への対応はかなりまずいと思う。
地震への万全の備えは難しい。想定を上回るマグニチュードの巨大地震が起きたのは、地震学による予測の失敗に違いないが、津波への警戒が薄かった地域ではない。日常の防災意識や訓練のおかげで救われた人もかなりいるだろう。
そして発生後の救助・救援は、持てる力を尽くして行われた。惨状にうろたえず、やるべきことが着実に進められた。医療関係者は厳しい状況の中で懸命に被災者を支え、ボランティアは余分な混乱を招くことなく救援に入りつつある。
食料や水の不足、燃料不足、医薬品不足といった問題は生じているものの、阪神大震災以来の様々な災害の経験を、行政も市民も生かしているし、非常に多くの人々が助け合い意識を発揮している。これだけ連帯意識を持てるなら、日本は捨てたものではないと感じる。例外は、ひとごと意識で「津波は天罰」と放言した東京都知事ぐらいだろう。
他方、原発は危険な核分裂生成物を大量に生み出す装置だから、備えは万全でなければならないし、推進側は万全だと主張してきたのに、システムの設計に基本的な不備があった。
巨大技術で危険を回避するために重要なのは、トラブルが起きた時に安全側に作動する「フェイルセーフ」と、一つが壊れても別のものでカバーする「多重化」である。地震で外部電源が喪失すれば、直ちにECCS(緊急炉心冷却装置)が作動するように作ってこそフェイルセーフだし、非常用の発電機を複数設けたなら、津波で同時に壊れないように設置場所を別々にするなどの工夫をしてこそ多重化なのに、そうはなっていなかった。
政府の事後対応もお粗末だ。客観的な情報を早く出すことが大事なのに、炉心の異常事態の公表も、放射線量の測定データの公表も遅かったし、汚染マップや風向き予報の提供は、今なお不十分だ。
また事態の先行きが不透明なら、最も深刻なシナリオを想定し、より安全側に立って判断すべきなのに、当初に決めた避難範囲の20キロ圏を修正しようとしなかった。
放射線ではなく放射性物質が放出されたのだから、リスクは同心円状ではなく、風向きによって濃淡が出るのは当然だ。ところが北西側と南側の汚染度の高さがわかった後も、「20〜30キロ圏は積極的に自主避難」などと訳のわからない方針を出した。
そして飛散した放射性物質や食品・水道水の汚染も「健康に(直ちに)影響はない」と簡単に言ってのける。
時間あたりの線量と累積線量、無益な被曝とメリットのある医療被曝、外部被曝と内部被曝をきちんと区別しない説明が目立った。急性影響(確定的影響)と晩発影響(確率的影響)の区別もあいまいで、後者を意図的に軽視しているのではなかろうか。
政府だけでなく、テレビを中心にした報道とそこに登場する学者、とりわけNHKの報道にも、同様に事態を過小評価する傾向をしばしば感じた。「不安をあおらないように」という意識が働くのはわかるが、安心ばかりを強調する伝え方もいただけない。洞察力のある国民はリスクを避けるために自衛的に行動するだろう。
信頼感を持てない情報伝達は、せっかく高まった連帯意識にも亀裂を生じさせかねない。