続々漂萍の記 老いて後(24)/谷口 謙(北丹)
蔵書
松永のことを書こう。名前は忘れた。彼は結核で、中学の時か松江高校の時かよく知らないが、ぼくたちより数歳年長だったと思う。大学に入った時も、同じ高校出身だが顔も思い出せなかった。いつも無精髭を伸ばして長年、飄々として風采は全くかまわなかった。彼は短歌が好きで、たしか個性の強い表現だったと思う。ただし残された記録をぼくは持っていない。彼は四国の徳島の出身で、よく父親の話をした。その父の名前も遂に知らずに終わったが、ペンネームがあったかもしれない。与謝野鉄幹と晶子さんの弟子で明星派の歌人だったらしい。
「ずっと明星にいたら今頃はなあ」
1杯飲むと必ず出る言葉だったらしい。父親の厳命で帰省したそうだ。その父親の集めた本を彼は京都まで持って来て書棚に並べていたようだ。実はぼくも何回か借りて読んだ。晶子の歌集に引かれる作品があり、どうしても離れられず、横に置いてくり返し読んだ。「返せ、返せ」と松永が執拗に言うようになった。「うん、うん」言いながら、ぼくは座右に置きたかった。とうとう松永が怒って言った。
「いいかげんにせい、返せ」
なぐられそうになり、ぼくはそれを返却した。
戦中だったか戦後だったか、松永の姿を見なくなった。結核で死んだそうな。赤井からの情報だったか、やや不確実な記憶である。
愛書癖、蔵書癖は以前からあった。「荒地詩集」は第5巻まで出るたびに買い、第6巻は買いそこねた。西脇順三郎に惚れこんだ時期がある。高価だったが、これも買い続けた。父の蔵書は、戦後の混乱期にほとんど売りつくした。ぼくの代の本は1冊も売っていない。何かに書いたが、60年詩を書き続け、未だ無名である。