続々漂萍の記 老いて後(21)/谷口 謙(北丹)
畏友
前記したように、ぼくが医学部に入ったのは昭和19年10月である。その次のクラスは高校が2年だったので、20年4月に入学したことになる。この時の入試がどのような形であったかぼくは知らない。正式の試験が行われたのは21年3月からだと思う。
基礎医学教室の門だった石柱を入ってすぐ、向かって右にかなり大きな掲示板があった。そこに大学入試の問題が、貼ってあったのである。数学、理、化学、語学等であったと思う。ぼくは一瞥したが、最初に見た数学が何のことかわからなかったので、そのまま通り過ぎて教室に向かった。
教室には竹村がいた。彼は六高出身で何か運動部に属していた。「六高の部活はきついぞ」などと話していたのを思い出す。彼は友人と数学の問題を語り合っていたのだ。ここをこうやって、こうすれば簡単だよ、まあこの位の問題だったら易しい方だ。ぼくはちょっと頭をつっこんで、やっぱり何も理解できなかった。ぼくも高校1年の後半から一生懸命勉強をして、何とか学期試験をパスしてきたのだった。それからまる2年たつかたたたぬかで、ぼくはさっぱり入試の問題が理解できなかったのだ。お恥ずかしいことだ。何ということか。僅かの間、理数から離れて何も忘れてしまっているのだ。ぼくは理数系は駄目なのだ。うすうすは感じていたが、そのとき確と感じ入ったのである。
ぼくは文学の方に傾いて行った。俳句は敬遠して、短歌に走っていたのだが、桑原武夫の「第二芸術論」が大きなショックだった。この原稿が書かれたのは彼の仙台時代、東北大学に在任中だったと最近知った。ぼくは短歌を止めて詩に転向をした。
俳句については最近、蕪村熱にうかされて、再読を始めている。本紙俳句欄の選者三嶋隆英先生から、主宰誌「風雪」と星野麥丘人氏の「鶴」を毎号送っていただいている。ただし句は作ったことがない。