続々漂萍の記 老いて後(20)/谷口 謙(北丹)
府一(2)
更にもう1つ、府一(旧府立第一高等女学校)関連のことを書こう。
前回を昭和19年末のこととし、今回を昭和20年初頭のこととする。とにかく寒い季節だったし、まだ父母が郷里で健在だった頃だった。たしか京都新聞ではなかったかと思う。いや、朝日か毎日か読売か。はたまた産経だったか、60年以上前のことなので確とした記憶はない。当時新聞は貴重で、そんなにやたらに読めるものではなかった。医学部の事務室に毎日の新聞がとじてあって、ぼくたち学生にも自由に読めたのかもしれない。短歌の投稿欄があって、選者の住所氏名が書いてあったと現在のぼくは信ずることにする。
ぼくは当時独りで短歌を作っていたように思う。もちろん発表の場所はない。だが独りで居室に座っていると、ただ何となく短歌の形が恋しくなったのである。ぼくのような者が本当の無名詩人と言うのだろうと、長い年月をへて今でもそう思っている。何で俳句でなくて短歌だったろうか。短歌には一定の長さがあったからだと思う。俳句では全くの素人がとんでもない名句を詠むことがある。それも人生で1回限りのことがある。短歌ではその偉業をのがれることができる。ぼくの作品はいっとき思うことがあり、一切を焼いてしまった。1首も残っていない。ぼくは戦争短歌が嫌いだった。ただ叙景のみを信じていた。いかにも青くさい世間知らずだったと思うが、これは今でも信じている。
ぼくが知った選者の名前は忘れた。ただ何かの縁で住所をつきとめ訪問したのである。前もって葉書は出しておいた。その歌人の住居が何と府一の近所だったのだ。ぼくは己の草稿を持参していた。話の終わるまでおよそ20分位だったと思うが、手渡すことができなかった。もちろん物のない時だったが、若い娘さんがお茶を1ぱい出して下さった。
「府一に行っています」
歌人が一言口をそえた。それはいかにもいとしいといった思いの言葉だった。が、歌人は戦争のことや物の無いといったことを話題にすることはなかった。ぼくが文人にお会いしたのはこれが初めてだった。持参してとうとう渡せなかった草稿はその後何回かに分けて投稿したが、何れも掲載されなかった。