続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(48)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(48)

再会

 松村博が拙宅に2回来てくれたことは前に書いた。昭和35年10月刊行の松江高校同窓会名簿によると、出身、阪工通信22年卒としてある。つまり大阪大学工学部通信工学科を昭和22年卒、勤務先は特許庁通信測定課、住所は東京都世田谷区と記してある。つまり申請された特許を審査する仕事だったらしい。ぼくには全く無関係な管轄だった。

 阪大時代、松村は京都のぼくの下宿先安田さんの所に来てくれた。ぼくはしばらくして彼の住む大阪船場まで行ったが、あいにく彼は不在だった。下宿は松村の父の商売上の付き合いの方だったらしい。それから空襲がはげしくなり、ぼくは大阪行きを止めてしまった。ただ文通は続けていた。安田さん方での話だったろうか。松村がちらりと洩らしたことがある。松村の兄が下宿先と不本意な仕事のやりとりをした。ひそかに松村は実兄を非難していたのである。松村はいい男だった。純情といえば子どもっぽいが、あんな友人は以後なかったように思う。松村が第2回目に来たとき、ぼくは松村に結婚をすすめた。彼はなんでそんなことを言うのかと、右手を振った。

 その後、次第に疎遠になり、賀状だけの交換になっていた頃と思うが、西尾準二と梅原昇の連名で、京都府宇治市で松江高校のクラス会を開くとの通知があった。昭和45年頃だったと思う。電話で連絡したのだが、西尾も同意をした。あっ、松村に会える。東京の方からの出席者は少ないだろうが、きっと松村は来る。彼に会える。こう信じてぼくはめったに外出しないのに、宇治まで足を伸ばした。

 国鉄宇治駅には、時間のうち合わせはしていたんだが、梅原が迎えに来ていてくれた。宿はいい所だった。背後に宇治川が流れていた。集まったのは梅原昇、西尾準二、遠藤幸雄、松村博、松前卓爾、吉村友三郎、谷口謙の総勢7人だった。もうぼくたちは中年で、最初は松村の人別がつかなかった。やっと梅原に教えられ、やはり小柄だが服装を整え、僅か昔の面影が残っていた。重要な地位についているのだろう。たしかに貫禄がついていた。ぼくは思うまま松村と話せなかった。席も離れていて、辛うじて「お子さんは?」とだけ聞いた。「女が2人」短い返事が聞き出せただけだった。もうぼくは感傷の狭間にあった。お互い己の道を歩かねばならぬ。懐旧は終わった。だが老残とは悲しいものだ。人生の終わりに近く、古い感傷に沈むのを許していただきたい。昭和44年の同窓会名簿では、松村の住所は三鷹市、仕事は特許庁審判部審判長とある。

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