続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(45)
「鶴」誌の編集後記
冒頭に本紙の俳句欄(昨年12月終了)選者であり、俳誌「風雪」の主宰者であった故三嶋隆英医師に深く敬意の念を持っていることを前書きとして書こうと思う。
俳句に興味をお持ちの方は、俳誌「鶴」誌主宰者、星野麥丘人氏を知っておられると思う。もし御存知なかったら、氏は石田波郷、石塚友二についで、三番目の「鶴」のリーダーである。大正14年3月4日生、昭和61年4月主宰継承、と略歴にある。なぜぼくが麥丘人氏と知り合いになれたのか、やはりいっとき夢中になっていた蕪村、その丹後時代についてであろう。氏がまだ友二主宰の下「鶴」編集の時、拙著をお送りしたら、返礼の意味で「鶴」誌を送って下さった。怠惰なぼくが氏にお会いしたのは1回だけである。それも招かれて天橋立の旅館でである。大勢の方が同行しておられ、蕪村の丹後時代についていろいろご質問を受けた。その時関西女性ナンバー1と称せられる大石悦子氏、敦賀の開業医川上季石氏等にお会いした。ぼくが書きたいのは麥丘人氏の病状である。「鶴」誌21年5月号の編集後記に、氏は己の処方された薬剤名を列記しておられる。
〈循環器内科〉
ハーフジゴキシンKY錠
ルプラック錠
バイアスピリン錠
ビソルボン錠
メチコバール錠
〈血液内科〉
アルサルミン細粒
プレドニゾロン錠「タケダ」
バクタ錠(火・水のみ)
後記の終わりに、ぼくの今の関心は血液内科処方のプレドニゾロン錠「タケダ」を朝2錠のみ、1カ月も経たないうちにムーンフェイスになってしまった。かつて波郷先生もムーンフェイスになった云々。更に6月号の編集後記に、用事にて自転車に乗って出かけたところ、同じ自転車の人と接触し顔面に約1センチ位の外傷を受けられた。薬局にて外用薬を求めようとされたら、たまたま薬剤師がいて、何か薬を飲んでないかと質問をする。バイアスピリンを服用中だとお答えになったら、「それはいけません、すぐに病院に行って下さい」と言われた云々。麥丘人氏は子どもさんがなく、夫人も病者らしい。氏は家事一般から「鶴」誌の編集をやっておいでなのだ。更に6月の後記の最後に三編の短歌、俳句が記してある。
夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも
明治34年詠の子規の歌
野蒜摘む乳母車には赤ン坊
麥丘人けさの句
楽寝昼寝われは物草太郎なり
明治36年詠の漱石の句
文学の鬼という語がある。麥丘人氏はまさしく文学の鬼である。ただただご長命をお祈りするばかりである。
「鶴」誌の「飛鳥集」に中井脩太郎氏の名が消えて久しい。中井医師は京都市東山のご出身で、しばらく網野町小浜の丹後ふるさと病院内科に勤めておられた。いやそれより前、京都府保険医協会の理事として、北小路博央医師らと共に当地方においでになり、面識はあった。中井医師とも天橋立で京都府医師会の医学史研究の方々と一夜話し合ったことがある。中井医師は本紙俳句欄選者であったが、思いもよらぬ若さで急逝された。丹後ふるさと病院院長の瀬古敬医師から、惜しい人を失ったと聞かされた。