続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(15)

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(15)

僥倖

 大学入試のことを書こう。今までこのことは一切記していない。恥ずかしかったのである。だが一度は書いておかねばならぬことだと思う。

 理科甲類3組の半数は医学部志望であることは前に書いた。2年生のとき吉野寛が追放になったことも。日本中の高校生が通年動員に行ったので、昭和19年度の大学入試は不可能になった。それで無試験で前年の成績から入学を決定したのである。つまり前年、松江高校から京大医学部に入った人が10人あったとすると、今年度同じ人数を合格とするのである。結局、前年度入学した人の成績がそのまま今年度の入学基準となるわけだ。ずいぶん無鉄砲な話だが、当時はそれで通ったのである。

 前年度、ぼくのような理科甲類から京大医学部に1人入ったらしい。それでぼくたちの仲間にも1人の枠があったのだ。ぼくは1年後半から3年生の前半まで、下宿に籠って一心に勉強した。自分から言うのは恥ずかしいが、死物狂いだった。微分も積分も、ぼくの場合、第二外国語であったドイツ語も、これは厳しい授業で有名な岡村といった教授だったが、一生懸命だった。1番の吉野寛は放校になった。2番の人は名前を忘れたが、父が九大出身の精神病学者で有名な人だったらしい。それで九大に行き、父の後を継ぐとの噂だった。いかに努力をしても、ぼくは彼を抜けなかった。受験志望校を学校に出す時、吉野寛を抹消し、ぼくは2番だった。1番に上った九大志望者の行動がぼくの運命をきめた。通年動員に行く直前だったと思う。

 ぼくは京大進学を許可するとの学校からの保証らしき文書を得たのである。これが僥倖でなくてなんだろう。当時の医学部の外国語はドイツ語に限っていた。ぼくはドイツ語の授業は頑張ったが、第一外国語だった理乙の人たちにかなうわけがない。残されたぼくの心配は、学徒動員の辛さに負けて逃げ帰ったことだった。だがそれは見すごしてくれた。ぼくは駄目だったら長崎医大に行きたく思っていた。長崎へは文科乙類の人が4、5人行かれるとの話を聞いていた。長崎に行っていたら、おそらく原爆の犠牲になっていたと思う。長崎に行った人は当日1人だけ欠席された人が助かったと聞いている。

 父はぼくの京大入学を喜んでくれた。実は父が入沢達吉先生宅で書生をしていた頃、森鴎外と並び賞された軍医中将・谷口謙がよく入沢氏宅に出入りをし、面識があったのである。それで今の谷口謙が京丹後市の僻陬(へきすう)の地に住み、このような駄文を書いているのである。

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