続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(12)
通年動員
3年生になった。昭和19年、戦争は次第に苛酷を極め、理科生は入営延期の特典が続いたが、文科生は廃棄された。軍事教練も理科生はまだのんびりしていたが、文系の人たちは真剣だった。学校でぱったりタツノに会ったとき、
「あんたらあ、教練真剣だなぁ」
ぼくが言ったら、タツノは視線を伏せず、はっきりぼくを見て、
「あたりまえよ。ぼくらは時間を限られているからな」
東大法学部に入ってから、タツノは何カ月で入営しただろうか。
通年動員が発表されたのは、3年生になっていつ頃だったろうか、はっきり覚えていないが、晩春か初夏の頃だったと思う。そうすると、3年生の授業は4、5、6の3カ月がぎりぎりだったと思う。行き先は門司の軍需工場だった。たしか6人1組で溶鉱炉の前での仕事だった。名前は忘れたが、鉄扉が開いて溶鉱炉に入れる。一定時間がたつと鉄扉が再度開いて真赤になった鉄片が出て来る。夏で暑かったし、いや冬でも同じだろう。甚だ厳しかった。2週間もして、ぼくはへばってしまった。もちろん初めての仕事だった。食事も些細なことは忘れたが、寮や下宿で食べるものよりずっと劣悪だった。1週間位から激しい下痢に苦しんだ。高熱でも出ないかぎり、欠勤は不可である。6人のグループの他の人の迷惑になる。
弱者には弱者の知恵がある。戦争に協力せず、非国民、エゴイストと罵られても、徴兵検査、第一乙種合格、歩兵、と決められようが、ぼくは自分が可愛かった。市内の全く未知の人に、「門司市の開業医のなかでもっとも評判のいいのはどこですか?」尋ねて受診した。医院の名前は忘れた。会った人は中年の方で、他に見たのは医員一人、背後に小さな病院らしき建物があった。医師は診察し、続いて胸部X線写真を撮影した。写真をじっくり眺め
「大丈夫、敢闘精神があれば充分やれる」
ぼくは喰い下った。
「失礼ですが、私の父も開業医です。誠に御無礼とは存じますがフィルムを貸して下さいませんか。父に見て貰いたいんです。ツ反をしましたが二重発赤で水泡ができました」
院長はしばらく考えていたが、
「よろしい、診断書を書きましょう」
ぼくはふらふらっとし、倒れそうになった。横にいた看護婦が助けてくれて、医師の命で後方の病室に運んでくれた。
ぼくの右鎖骨下に病巣が発見され、パス内服を始めたのが24年の後半だったと思うから、かれこれ5年後になる。門司での発熱が、いやその少し前が初感染とすると、少し時間が合わないような気もするが、その時ぼくはただ嬉しかった。当時の言葉で言えば、非国民である。離職の手続きをするため、現場監督に来ていた数学のS教授のところに行ったら、同級生の左藤にばったり会った。職場は彼とは違っていた。
「おい、左藤」
「ああ、谷口」
左藤とぼくは帰郷を許されたのだ。左藤の事情はわからない。S教授がぼくらの背に声をかけた。
「2人とも帰れるのが嬉しそうだな」
嫌味だろうが、ぼくはS教授のことなど、どうでもよかった。帰校しても3年生の医学部志望の者にはS教授の授業はなかった。関門トンネルをくぐり、下関でぼくは左藤と別れた。左藤は山陽本線に乗り大阪へ、ぼくは帰路松江で1泊し、翌日帰った。父が飛び上るように喜んでくれた。父は天皇崇拝、国粋派のような言動だったが、天皇、日本のことなどどうでもいい「よく帰った」と連発し喜んでくれた。その父は翌々年の9月に死亡する。