続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)<11>
ひだりふじ
クラスに四修の左藤弘がいた。四修の人たちが記憶に残っているが、やはりぼくもその仲間だったからだろうか。親近感があるのだろう。理甲の3組では編成替えが行われ、その半分が医学部志望、残りが、理、工、農学部への進学コースだった。佐藤は多いが左藤は珍らしい。ふりがながなかったのだろう。確か英語の出水教授だったろうと思うが、名簿を読む時、ひだりふじ、いやいやさとうかな、と言い直したことがあった。
左藤は小柄だが、がっちりした体格で蹴球部の選手だった。言わばクラスの中のスポーツマンである。出身校は大阪の有名中学、後で大阪出身の級友から聞くと、大阪の名門の生まれとのこと。1年生の時だが、ぼくはその級友から1枚のパンフレットを見せられた。左藤弘が四年修了で松江高校に入ったので、めでたいと記してあった。ぼくはこの1行を読んだだけで、どんな所から発行されたものか知らない。とにかくその級友は、ひどく感心をしていたということ。
四修で入った者は、最初は成績不良だが、次第に追いつくのが通例だった。また最初の1年は、京阪神出身の者が上位を占めるが、2年生になると地元の者やその近くの者がとって替る。つまり松江・大社・米子・鳥取等々である。京阪神のトップクラスは三高を受けるようで、危ないと思った者が、松江・高知等に散らばるのだ。ならばお前はどうかと問われそうだが、宮津中学からの一高合格者はまずなく、三高が2年に1人位だったろうか。四高には案外入った人があったようだ。松江に沢山入ったのは、ぼくたちからである。先輩は3年生の坂根さん1人だった。終りになって大勢出て来たなあ、と言って、坂根さんは1人で歓迎会をしてくれた。そして先輩は阪大医学部に行った。
左藤はしぐさが端正だ。目立って都会人としてのセンスを持っていたと思う。
彼のことで驚いたのは戦後のことである。彼の父が参議院議員になった。その父の引退後は兄が衆議院議員に、そして本人自身は大阪道修町に養子に行ったと聞いた。その彼が某新聞の記事になった。ぼくはためらった末、彼に電話を入れた。思ったより早く彼は電話に出てくれた。とりたてて話すことはない。お互い古い松江時代を語り合った。「実はなぁ谷口、わしは卒業してから松江に行ったことがないんだ。仕事がな」。これで電話は切れた。左藤が死亡したのはいつ頃だったろうか。その知らせはやはり新聞で知った。手許にあるぼくの持つ最も新しい会員名簿は昭和55年版で、関西地方の名簿である。それには、大阪大学工学部精密、昭和22年卒で、○○薬品(株)社長、となっている。○○薬品に電話を入れても、突き放すだけだろう。ただ謹んで瞑目するのみである。