続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<41>
有働薫さんと知り合いになったのは何時の頃だったろうか。古い「詩学」誌がみつからないのが残念だが、有働さんが詩学研究会の選者になられてからに間違いない。前にも記したが、詩学研究会は詩壇の登竜門と言ってもよかった。特に田舎住まいの者にとっては現代詩界に入るチャンスは、この研究会で毎年1回の詩学新人発表以外になかったといってもいいと思う。ぼくは能登秀夫の同人誌に属しつつ詩学投稿欄に作品を送り続けていた。昭和31年3月、ユリイカから詩集「死」を発刊、おおむねこの頃からぼくの詩業の道は始まったといっていい。当時「荒地」のグループが作品募集をしていて、ぼくは発刊予定の原稿をそのまま応募した。同人の何人が読んで下さったかわからないがもちろん、没、だった。一度だけ名前は忘れたが荒地同人の人が詩学研究会の選者であったことがある。ぼくの作品に1点を下さったが、記事のなかぼくについての発言は全くなかった。有働さんが選者になられたのはいつの頃かわからない。ただ有働さんは三十代の半ばから詩を書き始め、48歳のとき第一詩集を出したとおっしゃっているから、そんなに古いことではないと思う。有働さん自身も詩学研究会ご出身なのである。平成14年の詩学新人発表の審査員は、阿蘇豊、有働薫、竹内敏喜、徳弘康代、それに編集部の藤原憲二の5氏である。平成15年新人発表は9人である。3人推薦は1人、2人は3人、残りの5人が1人推薦であり、ぼくは有働さん1人の推薦であった。当選者には八つの質問があってアンサーを求められた。
(1)自分以外の人の詩で好きな、あるいは大切な一行を書いてください。
(2)生活の中で「詩」を感じるもの/ことばがありますか。それはどんなもの/ことですか。
(3)あなたが詩(の題材)にしたいことは、例えばどんなことですか。
(4)あなたが詩(の題材)にしたくないことは例えばどんなことですか。
(5)50年後に、ふと、どこかの図書館でこの雑誌のこのページを開いた人への一言、お願いします。
(6)癖がありますか。教えていただける範囲でおこたえください。
(7)今、この時が夢だとしたら、現実のあなたは、どこで何をしている人(あるいは生き物)だと思いますか。
(8)千年後、あなたが住んでいる町はどうなっていると思いますか。
面白い質問だが、ぼくのアンサーは省略する。
有働さんとの交遊はもっぱら電話だった。有働さんと話をしているとき、ぼくは雑念からのがれることができた。有働さんだって人間だからたまには愚痴をこぼされることもあった。「ああ、何時になったら名前が通るようになるんですかね。いい年をして無名のままで」。でも有働さんの人徳だろうか、有働さんの周囲には沢山よい方がいらっしゃった。あれだけフランス文学の教養がお高いのだし、いわゆる氏素性がよい。そんな中9月16日、有働さんから連絡があった。第28回資生堂の「現代詩花椿賞」を受賞したとのこと。有働さん、お目出とう。ぼくも人生の終わりに近く、ぼくを詩界に出して下さるよう努力して下さった方が、詩界の著名な賞をお取りになったこと、本当に心から嬉しい。平成23年9月21日の毎日新聞に受賞の記事がのった。おそらく全国版への掲載であろう。続いて「文藝春秋」平成22年11月号の随筆欄、88頁に「『花椿』と詩」と題されて平田俊子氏が有働さん受賞の記事を書いていらっしゃる。有働さん、よろしかったですね。そして何とかして生きている間にお会いしたく思っています。京丹後の僻地に住む者から本当に心からお祝い申し上げます。
最後に有働薫、受賞詩集「幻影の足」トップの作品を写しておきます。
まぼろし
落ちていた埃を
手のひらに拾うと
鼠のかたちの影になった
夕闇の部屋で
このあたりでは
ついぞ見かけなくなった
害獣を
殺すことにも慣れたと言っていた
首都の谷間に住む妹の
息子に子は生まれただろうか
第2868号(9月5日)から、編集の都合により「続々・漂萍の記」を休載させていただきます。再開は第2877号(12月5日)で、その間は野村拓氏による「グローバリゼーションと医療」(6回連載)を掲載します。