続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<40>
詩 人
古い仲間、詩人の大月俊信のことを書こう。当時の福知山周辺、現在は市に入っていると思うが、某集落の住職だった。ぼくより10〜15歳年長だったと思う。代々の住職だったらしくお父さんも同業だったようだ。戦後の混乱期、「荒地」「列島」の二つの系列で大まかにいえば「芸術派」と「社会派」少しあとになるが、それぞれが、アンソロジーを出していた。当時の中央的な詩誌と言えば「詩学」が中心、いやもう、「詩学」以外に詩の雑誌はなかったように思う。無条件でそれに作品を発表させて貰ったら、いささか大袈裟かもしれないが詩人として通るような雰囲気だった。いやこれは地方で友人もなく、独りで詩を書いていたぼくの僻みかもしれない。ま、とにかく大月俊信は数回この詩誌に作品を発表していた。ぼくは涎をたらしてその作品を読んでいたのである。あとから聞いた話では、彼は早稲田の仏文出身だと言うことだった
ぼくが始めて詩誌の同人になったのは「交替詩派」だったが、この詩誌廃刊後、国鉄詩人能登秀夫が福知山に着任した。彼はその国鉄詩人のなかで大御所的な存在で、かねてから腹案中の同人誌「さんたん」を発刊した。昭和29年のことで、さんたんとは丹波、丹後、但馬のこと、同時に惨憺たる日本の現実との意味だった。能登は近くに住む大月に着目し、同人に誘い入れた。大月も受け入れた。それでぼくも始めて大月とお会いした。彼は落ちついた端整な顔立ちの、中肉中背の方だった。ぼくはユリイカから詩集「死」を刊行、昭和31年のことで、能登は宮津で出版記念会を催してくれ、大月もテーブルスピーチをしてくれた。「さんたん」は能登の転勤にともない、「鷺」「浮標」と誌名を変えたが、いつからかはっきりしないが、大月は同人を辞した。その後彼がどのような詩の世界に住んでいたか知らない。
ぼくが郷里で開業医生活を送っていて多忙だった某日、町内の生糸縮緬商の家に来ているとの、大月からの電話があった。暑い日だった記憶がある。もうその時は大月はぼくたちのグループにいなかった。馳せつけると端正な大月がいた。彼はぼくに「先生」と言った。「大月さん、先生はやめて下さいよ。谷口君、と言って下さい」、大月は笑い首をかしげて「谷口君か」とアルコールのためか赤い顔をしていった。大月は生糸縮緬商とは連隊仲間、同期生だったと言った。幹部候補生の仲間だったかもしれない。おそらく福知山連隊でのことだろう。
賀状だけの交換で、その後は会っていない。夫人に死別され、住職の座を息子さんに譲ったことも知った。
それから何年位たってのことだったか、ぼくも老境に入りかけた頃だったと思うが、かなり厚い封書が届いた。なかに数編の手書きの詩の原稿が入っており、便りが添えてあった。いい年をして恥ずかしいが、人間の名誉欲とはいつまでもあるものだ。詩集を出版したく思っている云々。現在は横浜のホームにいると記してあった。彼の最後の手紙も詩稿も手許にない。男盛りの頃の彼の端正な風貌と、それにふさわしい詩風を追憶するのみである。
蛇足ながらつけ加えておく。大月俊信とはおそらく本名は大槻俊信ではなかったかと思う。福知山には大槻姓が多いから。