続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<33>

ある画家

 考えて、考えて、思いきって毎日新聞大阪本社に電話を入れた。平成22年5月12日午前9時半頃、用事を言うと、すぐに係の方に代わって下さった。毎日新聞連載小説「葦舟、飛んだ」の作者津島佑子は太宰治の娘さんであることの確認、しごく身勝手な依頼だった。長編小説で終了に近づいている。作者の名前に引かれ毎号切り取っておき、再読をした。 内容は太平洋戦争敗北後の引揚げ者の苦難困窮物語だった。当時ぼくは大学生で、生涯でもっとも困窮していた時だった。太宰伝説はいろいろ聞いたが、太宰が外で取り巻きの人々にかこまれ、高い闇酒を飲み騒いでいるとき、家庭では夫人と娘さんが電話線を切られ、暗闇のなか寒さに震えていた云々。太宰年譜によれば夫人の外、恋人太田静子との間に昭和22年11月12日、女児が産まれ治子と名付けたとある。太田静子も小説を書いたとの話は何かで読んだが、この創作読了の有無は覚えていない。治子は津島佑子の異母妹にあたり、昭和22年生まれである。太宰が自殺をしたのは、昭和23年6月13日、愛人山崎富栄と共に玉川上水に身を投げた。死体発見は6月19日である。生涯に何回かの自殺企図はこれで完了する。ぼくは前にも記した安田晴、千代子さん夫妻宅で下宿生活を送っていた時で、太宰が自殺したよ、謙ちゃん、と声をかけられ、新聞を見せていただいたことはありありと覚えている。当時のぼくにとって太宰の生活は夢のまた夢だったが、この人は必死で小説を書いていたんだな、ということだけはわかった。

 ただ津島佑子は太宰死亡時1歳だったとあるが、その成長後実父の作品をお読みになって、どのような感想を持たれたか、自分の文学との関連をどう考えていらっしゃるか、愚かなぼくには想像もつかないのである。日本では親子の小説家は案外少ないのではなかろうか。特に太宰のような破滅型の作家は、実の子どもたちにとってはハードルが高いのではなかろうか。だがこれは愚かしい素人の第三者のかんぐりである。強い強い個性に恵まれていらっしゃるのだろう。

 翌、5月13日、思い切って姉の入っているO市の老人ホームを訪れた。午前11時出発、着したのは午後1時30分だった。所要3時間位と聞いていたが、平日なので高速道路がすいていたためである。姉に会い元気なので安心をした。呆けていると聞いていたが、ぼくに対する言動はまあまあだった。早く帰れとせきたてられ、帰路赤松なる所で蕎麦を食べ、帰宅したら午後6時30分だった。知人の某氏から1枚FAXが届いていた。津島佑子のことを知りたいとお願いしていたのである。インターネット情報、出展フリー百科事典「ウィキペディア」津島佑子1947年(昭和22年)3月30日生、小説家太宰治の次女、女系家族に育つ。成人式を迎えるに際して山梨県の富士五湖を訪れ、父の文学碑を見る、とある。結婚は2回、男児は失われた由、女流作家の方に父、太宰治なる破滅作家の存在は大きな負担だったろうと想像する。乗り越えるべき山は途方もなく高かっただろう。なお姉さんは青森県選出の国会議員夫人の由、津島家は大地主だったとのこと。代々の名門である。

 今日会ったぼくの次姉は戦争中大手K建設に勤める男と結婚したが、K建設の地盤の大きい東北地方、青森県の浅虫温泉に戦後赴任した。そこで太宰の親戚か、親しい友人か、今となってはさだかでないが、画家からモデルになってくれと頼まれ、その作品を貰って大切に保存していた。姉はその後、岩手、東京、芦屋、京都と住所を変えたが持ち続け、京都に来てからぼくが貰った。署名もなく小品4号だが、二十代の若々しい姉の姿である。確か太宰の作品のなか、ちらりとこの画家の姿がよぎるが、作品名は忘れた。また探して読み返してみたい。

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