続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<31>
田部井先生
父は峰山町の丹後中央病院で死亡したが、そこの院長・宮川氏とは昵懇の間柄であった。物資不自由の頃だったが、近くに親しい料理屋があり、よくそこで飲食を共にしたようだった。ぼくが大学に入ったとき、父は小躍りせんばかりに喜び、宮川氏に話したところ、宮川氏は大学の微生物学教室の助教授をしている田部井氏が大学の一年後輩で、高校も同じ山形高校だったから親しい、とおっしゃり、紹介状を書いて父に手渡された。
このような事情で、昭和19年だったか20年だったか忘れたが、ぼくは田部井先生宅を訪れたのである。地味な感じの奥さんと、小学校の生徒らしい息子さんがいらした。どんな話をしたか忘れたが、先方は学究であり、ぼくは文学青年の端っこだったから、特別の話題はなかった。先生も宮川氏との関係でお義理だったかもしれない。数回お邪魔をした。そして戦後まもなく父が死亡した。そのことを言いに行ったとき、実はお金がないからアルバイトをしなければ、と言ったら先生は驚かれ、医学書は何でも貸してやるとおっしゃり、すぐに解剖や微生物学の本を出して並べて下さった。ぼくは固辞して席を立った。先生の山形の御家は有名な大地主だと宮川氏から聞いていた。ぼくはとうとう最後までお訪ねしないで大学を卒業した。そして国家試験合格後、一年足らずの病院勤務のあと開業をした。右肺に人工気胸をし、パス内服を続けながら、また父の期待したような入澤先生の如き高名な方に就くことなく、やみくもに無為な毎日を送っていた。そしてかたわら、才能もないままに下手な詩を書き続けていた。この方に野望がなかったといえば嘘になる。だがどこまでも無名のままだった。
ところがある日、突然、数回診察をしたことのある大宮町内の某機屋さんから電話があった。京大微生物教授の田部井先生から電話があった由。その機屋さんの電話番号は117番、ぼくの方は177番で、ときどき間違い電話があったのだが、田部井先生からと聞いてまさしく青天の霹靂であった。あわてて大学の教室の方に電話を入れた。先生は、ああ、小使が番号を間違えたのだなとおっしゃり、某月某日に峰山町に行くから顔が見たい、とおっしゃった。だが先生には時間がなかった。それで帰路、当時の国鉄口大野駅のプラットホームで先生をお待ちすることになった。列車が止まり、先生は下車されぼくの前に立たれた。先生は、ぼくの教室に入れ、いや都合が悪くてどうしても大学に帰れなかったら、せめてぼくの教室で論文を書け。開業していても書けるようなテーマを与えてやるからとおっしゃった。停車時間が過ぎ、ぼくは返事ができなかった。丁度自費出版をした処女詩集「風信旗」を手渡した。汽車は発車した。先生の外に2人の同伴者があって、何の理由で教室の幹部等3人が峰山町においでになったかわからない。医師会の方には何の連絡もなかった。
ぼくは手紙で先生のご厚情をおことわりした。あとで先生のおっしゃったことを人づてに聞いた。
「谷口はあかんなあ、若いときに勉強をしなくちゃあ、詩なんか書いて何になる」
田部井先生に関連のある方は、医師会の方にも何人か残っていらっしゃるだろう。間違っていたことがあったらお許し下さい。ぼくが一度だけお会いした、小学生時代の御子息は病理を専攻され、徳島医大の教授になられたとか。先生の御訃報は京都新聞に大きく掲載されたと、京都の姉が知らせてきた。ぼくは全く医界の情報に暗いから自信がないが、23年卒の同級生の尾崎が田部井先生の許で助教授になり、滋賀医大初代の教授に赴任したとか聞いた。前に書いた皮膚科の渡辺と同じケースである。