続々漂萍の記 老いて後(補遺)
友 人
谷口 謙(北丹)
この友人のことを書こうと思うと、どうしても父の追憶と重なってくる。父を誉めるようで恥ずかしい。父は口大野村の西園寺公と呼ばれ、父の認可がなければこの村の長が決まらなかった。父は自分で有力者と称していたが、ぼく自身はかなり長く知らなかった。つまり宮津中学に入ってやっと気付いたと思う。小学生時代は「坊ちゃん、坊ちゃん」と呼称され、多くの人から敬称で呼ばれた。これは何故かはわからなかった。父は愛児のため友人までつくってくれた。運動や勉強のよくできる同級生を接待して、おそらくこの子のように強く育ってくれという期待だったろうと思うが、ぼくたち2人は肩を組んで下校をした。人々は彼を護衛と言った。こんなことに感づいたのは、宮津中学に入って汽車通学をするようになってからである。父の威光は口大野村々内、口大野小学校までで、ぼくは中学に入り、初めて人並みの世界といえば大げさだが、仲間、友人たちと交流し揉まれるようになったのである。同友人は中学も一緒に入り、同じく汽車通学をしたのだが、思春期に入り彼も次第に自覚しただろうし、ぼくの方も同様でお互いに間隔を置くようになった。
当時、網野町からかなりの人数の同級生が汽車通学をしていて、なかなか団結力が強く、網野連と称して羽振りをきかせていた。友人は彼らとも接触し、短距離ランナーとして競技部で活躍し花形の1人だった。そして勉強の方でもぐんぐん頭角を現わし、確か一度1番になって副級長も務めていた。もうぼくにとっては高嶺の花となった。当時中学生にとり武骨派の頂点として、陸軍士官学校と海軍兵学校があった。友人は4年生の半ば頃、陸軍士官学校に合格をした。ぼくたち旧制高等学校の希望者も勉強したが、陸海軍学校とどちらがハードルが高かったかよくわからない。
友人は陸士に入り、ぼくは宮津町に下宿をして離れてしまった。いつだったか覚えていないが、昭和17年暮か18年の初め頃だったではなかったかと思う。友は帰省し陸士の制服制帽姿で宮津中学に挨拶に行った。いわば彼の晴れ姿であった。ぼくが松江高校を受験に行ったとき、なぜか彼は自宅に居たらしく母を尋ねてきた。受験時宿泊する宿の名前と住所を聞いたのだそうだ。ぼくが松江から帰ったとき、彼から激励の電報が届かなかったかと母から聞かれた。それはなかった。
敗戦。友は在学中か、少尉に任官していたかどうか知らなかったが、何かのおりに会ったことがあった。友は快活で不安焦燥の色は見られなかった。京都大学の工学部の編入試験を受け駄目だったと、朗らかな表情で伝えてくれた。
その後は地元の有力者のつてで某大手電機会社に入り、課長で定年退職。今まだ賀状交換。奥さんも口大野村出身である。