続々漂萍の記 老いて後(補遺)
養 子 系
谷口 謙(北丹)
Qさん一家のことを書こう。ただぼくの開業医時代には親しい交際がなかったので、どうしても人の噂もまじってくるので正確な話からそれることがあるかもしれない。ぼくの知っているQさんは口大野村の村長だった。大きな生糸縮緬商の主人。当時は丹後縮緬の全盛期で、当地方では多数の縮緬屋が乱立し、朝から夜まで家々の機場から織機の音が響いていた。父は村内唯一の開業医だったから、ぼくは機屋の内部など全く知識がなかった。Qさんが村長になったのも、やはり縮緬製造による財力が大きな要因であったに相違ない。
ぼくの家にお茶の先生が日を決めておいでになるのは前に少し書いた。ぼくには姉が2人あり、上がぼくより一廻り上、つまり丑年だった。そして下は10歳年長である。2人の姉にはそれぞれ友人関係もあっただろうし、5、6人だったと思う娘さんが拙宅の離れにおいでになり、華やかな雰囲気だったろうと想像をする。中に1人、非常におとなしい感じの、無口な美しい人がいらした。その人に漂う気品といったものをぼくが感じたとは言えない。当時上の姉が21歳とすると、ぼくは9歳である。その方がQさんの娘さんだった。
ここで思い出したQ氏の事件のことを書こう。Q氏が東京に行かれ箱根に廻られた。その時、当地の某旅館に、
「アス イク トーキョウ Q」
との電報を打っておかれた。Qさんが着いたら宿の門前に礼服姿の人が並んで待ち受けていた。Q侯爵と間違えられたのである。Q氏は頭をかいて父にこの話をした。ぼくは横にいてこの件を聞いたのである。ぼくが小学校の頃か、あるいは中学に入ってからかもしれない。ぼくは「Qさんはどうなったんだろう」と父に聞いた。父はぼくから目を逸らし、小声で言った。「Qのことだ。おそらく金をばらまいたんだろう。商売人だから」。Qさんと父との交流を信じていたぼくは驚いた。
もう古いことになるが、Q氏夫人とぼくの母が一緒に旅行したことを家妻が覚えていた。ぼくが結婚したのが昭和26年10月のことだから、まだその頃、Q氏はおいでだろうか。Q氏の娘さんはごく近在の同業の家から養子を迎えられた。この青年の薄い記憶は残っている。折りめ正しい立派な人柄だったと思っている。この人との間に2人の娘さんがあった。姉妹とも美人で、上の方がまた養子を貰われた。今回は当地の某金融機関にお勤めの方だった。この方の顔形がどうしても脳裏に浮かばない。区長や寺の総代も勤められたから、必ずお会いしていると思うのだが。
Q氏宅のような家が、美人系、養子系と呼ぶのだろうか。いや、養子系なる言語はぼくの創作かもしれない。Q氏の娘さんは100歳に近く毎週2回、デイサービスにお通いであると聞いた。